今日は何の日?
11月13日はうるしの日
文徳(もんとく)天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王が京都・嵐山の法輪寺に参篭し、虚空蔵菩薩からうるしの製法、漆器の製造法を伝授されたのがこの日であるとされていることから、1985年に日本漆工協会が制定しました。
日本の伝統文化であるうるしの美しさを今一度見直して日本の心を呼び戻すことを目的にしています
漆(うるし)とは、ウルシ科のウルシノキやブラックツリーから採取した樹液を加工した、ウルシオールを主成分とする天然樹脂塗料です。
うるしの語源は「麗し(うるわし)」とも「潤し(うるおし)」ともいわれています。
主成分は漆樹によって異なり、主として日本・中国産漆樹はウルシオール、台湾・ベトナム産漆樹はラッコール、タイやミャンマー産漆樹はチチオールを主成分とします。
漆は油中水球型のエマルションで、有機溶媒に可溶な成分と水に可溶な成分、さらにどちらにも不溶な成分とに分けることができます。
空気中の水蒸気が持つ酸素を用い、生漆に含まれる酵素(ラッカーゼ)の触媒作用によって常温で重合する酵素酸化、および空気中の酸素による自動酸化により硬化します。
酵素酸化は、水酸基部位による反応で、自動酸化はアルキル部位の架橋です。
酵素酸化にはある程度の温度と湿度が必要であり、これがうまく進行しないとまったく硬化しません。
硬化すると極めて丈夫なものになりますが、二重結合を含んでいるため、紫外線によって劣化します。
液体の状態で加熱すると酵素が失活するため固まらなくなり、また、樟脳を混ぜると表面張力が大きくなるため、これを利用して漆を塗料として使用する際に油絵のように筆跡を盛り上げる事が出来ます。
また、マンガン化合物を含む『地の粉』と呼ばれる珪藻土層から採取される土を混ぜることで厚塗りしても硬化しやすくなり、螺鈿に分厚い素材を使う際にこれが用いられます。
金属などに塗った場合、百数十度まで加熱することで焼付け塗装することもできます。
最も一般的な用途は塗料として用いることです。漆を塗られた道具を漆器といいます。
黒く輝く漆塗りは伝統工芸としてその美しさと強靱さを評価され、食器や高級家具、楽器などに用いられています。
漆は熱や湿気、酸、アルカリにも強く、腐敗防止、防虫の効果もあるため、食器や家具に適しています。一方、紫外線を受けると劣化します。
また、極度の乾燥状態に長期間曝すと、ひび割れたり、剥れたり、崩れたりします。
漆を用いた日本の工芸品では京漆器がよく知られており、漆塗りの食器では、輪島塗などが有名です。
竹細工の籠を漆で塗り固めるもの(籃胎)や、厚く塗り重ねた漆に彫刻を施す工芸品(彫漆)もあります。
碁盤や将棋盤の目も、伝統的な品では黒漆を用いて刃を潰した刀に漆を付け、盤上に下ろす太刀目盛りという手法で書かれます。
伝統的な将棋駒は黄楊を書体に合わせて彫り、黒漆が塗られます。
彫った表面に漆を塗る掘駒、黒漆と砥の粉を調合して彫りを埋める彫埋駒、掘埋の表面にさらに漆を塗り重ねた盛上駒があります。
塗料としての漆の伝統的な色は黒と朱であり、黒は酸化鉄粉や煤、朱漆には弁柄や辰砂などが顔料として用いられます。
黒漆と朱漆を用いて塗り分けることも行われます。
潤朱(うるみ)漆は、半透明な透漆に弁柄を用いて、こげ茶色系統(栗色から小豆色までなど)を出す技法です。
なお、数百年を経て退色した黒漆はこげ茶色となることがあります。
江戸時代に入ってからは黄漆と青漆が開発されました。
黄漆は透漆に石黄を加えたものです。青漆は黄漆に藍などを加え発色させたもので、実際の色は青ではなく緑色です。
伝統色の一つ「青漆(せいしつ)色」も深い緑色を指します。
金箔の上に透漆を塗り、金属光沢のある赤金色に輝かせる技法は白檀塗と呼ばれ、安土桃山時代の武将の甲冑にも例が見られます。
昭和以後は酸化チタン系顔料(レーキ顔料)の登場により、赤と黒以外の色もかなり自由に出せるようになりました。
江戸時代などには、漆を接着剤として用いることもよく行われました。
例えば、小麦粉と漆を練り合わせて、割れた磁器を接着する例があり、硬化には2週間程度を要します。
接着後、接着部分の上に黒漆を塗って乾かし、さらに赤漆を塗り、金粉をまぶす手法は金継ぎといい、鑑賞に堪える、ないしは工芸的価値を高めるものとして扱われています。
漆の新芽は食べることができ、味噌汁や天ぷらにすると美味だといいます。
これは元々、漆塗りの職人が漆に対する免疫をつくろうとして食べたのが始まりで、山菜独特のえぐみが非常に少なく食べやすいそうです。
生の漆が肌につくとかぶれますが、これはウルシオールによるアレルギー反応です。
ウルシオールのアレルギーを持つ人は、漆の木の近くを通過しただけでもかぶれることがあります。
果物のマンゴーもウルシ科の植物で、人によってはかぶれる事があります。
かぶれの程度と症状は、人によって実にさまざまです。
初めは漆が付着した部分のみですが、掻いたり刺激することで徐々に蔓延し、酷い場合には全身にまで広がります。
効果のある薬剤などは今のところなく、漆に触れないことが重要です。
漆職人など業務上漆を扱う必要がある者の間では、漆のかぶれには耐性が生じることが経験的に知られています。
そのため、新規入門者には漆を舐めさせるなどして重度のかぶれを人為的に経験させる対処法が伝統的に存在します。
漆器ではかぶれることは無いですが、まれに、作られて間もない場合、かぶれる事もあります。
これは重合され残ったウルシオールが揮発するためです。十分に重合が進んでいれば、かぶれることはありません。
漆にかぶれた場合は、ワラビの根を煎じた汁、煮た沢蟹の汁、硼酸水などを患部に塗る民間療法があります。
日本列島における漆の利用は縄文時代から開始され、土器の接着・装飾に使われているほか、木製品に漆を塗ったものや、クシなど装身具に塗ったものも出土しています。
漆製品は縄文早期から出土し、縄文時代を通じて出土事例が見られます。
2000年に北海道函館市で実施された垣ノ島遺跡の調査で、出土した漆塗りの副葬品が約9000年前に作られたものであったことが明らかになりました。
これが現存する最古の漆塗り製品です。
弥生時代の遺跡からは漆製品の出土は少なく、塗装技術も縄文段階と異なる簡略化されたものが多いです。
弥生時代からは武器への漆塗装が見られ、古墳時代には皮革製品や鉄製品などへの加工も行われています。
古墳時代に至ると棺を漆で塗装した漆棺の存在も見られます。
古代には漆容器の蓋紙に廃棄文書を転用することが行われていますが、漆の浸潤した廃棄文書は漆紙文書と呼ばれます。
漆紙文書は土中においても遺存しやすくなり、木簡や墨書土器と並ぶ出土文字資料として注目されています。
奈良時代には漆製品も存在し、良質な漆液を用い手間をかけて製作した堅地漆器は貴重品として貴族階級が用い、一方で漆の使用量を減らし炭粉渋地(炭粉・柿渋を混ぜた下地)を用い大量生産された普及型漆器は庶民が用いましたが、漆絵や蒔絵で装飾したものも見られます。
中世には林産資源のひとつとして漆の採取が行われており、甲斐国では守護武田氏が漆の納入を求めている文書が残され、『甲陽軍鑑』では武田信玄が織田信長に漆を贈答した逸話が記されています。
『色葉字類抄』という古辞書に、日本における漆塗の起源として次のような話が載っています。
倭武皇子(やまとたけるのみこ)は、宇陀の阿貴山で猟をしていたとき大猪を射ましたが、仕留めることができませんでした。
漆の木を折ってその汁を矢先に塗って再び射ると、とどめを刺すことができました。そのとき汁で皇子の手が黒く染まりました。
部下に木の汁を集めさせ、持っていた物に塗ると美しく染まりました。
そこでこの地を漆河原(現在の奈良県宇陀市大宇陀嬉河原(うれしがわら))と名附け、漆の木が自生している曽爾郷に漆部造(ぬりべのみやつこ)を置きました。
また、漆の防腐作用は即身仏にも利用されていたようです。
自分自身のミイラを仏像、すなわち即身仏とした修行者達は身体の防腐のために予めタンパク質含有量の少ない木の実のみを食する「木食」を行うと共に、「入定」(死して即身仏となること)の直前に漆を飲んでその防腐作用を利用したといいます。