今日は何の日?
11月1日は犬の日
ペットフード工業会等6団体が1987年に制定しました。
協議したのは、ペットフード工業会(現:ペットフード協会)、ペットフード公正取引協議会、日本ペット用品工業会、全国小動物用品協会、全国ペットフード・卸商協会(現:全国ペットフード・用品卸商協会発足)、ペット用品卸商全国連合会の6団体です。
犬の鳴き声「ワン(1)ワン(1)ワン(1)」の語呂合せで、犬についての知識を身につけ、犬をかわいがる日です。
1月11日と勘違いされますが、一般社団法人日本記念日協会等では認定されていません。
ちなみに漢字違いの「戌の日」は妊婦さんが安産祈願のお参りをする日で記念日ではありません。
イヌは最も古くに家畜化された動物であり、手に仔犬(イヌかオオカミかはっきりしない)を持たせて埋葬された、1万2千年ほど前の狩猟採集民の遺体が、イスラエルで発見されています。
元来は、住居の見張り、次いで狩猟の補佐などのために家畜化されたと考えられていますが、現在はほとんどが愛玩用であり、日本ではおよそ5世帯に1世帯がイヌを飼っています。
長い年月をかけて交配が試みられ、ダックスフント、トイ・プードル、ブルドッグなど、用途に応じたさまざまな品種が開発されてきました。
19世紀に生まれたケネルクラブによって、外形、気質などにより犬種の人為的な選別が進みましたが、20世紀以降に生まれた新犬種の多くは、見た目だけのために作られたものが多いです。
イヌは人間によって最も人為的改良をくわえられた動物であると言えます。
「シェイプシフター」(変身動物)と呼ぶ研究者がいるように、小さなチワワから大型のセント・バーナードまで、幅広いサイズと形態をもちます。
分子系統学的研究では1万5千年以上前にオオカミから分化したと推定されています。
イヌの野生原種はタイリクオオカミ (Canis lupus) の亜種のいずれかと考えられています。
イヌのDNAの組成は、オオカミとほとんど変わりません。
イヌがオオカミと分岐してからの1万5千年という期間は種分化としては短く、イヌを独立種とするかオオカミの亜種とするかで議論が分かれていますが、交雑可能な点などから亜種とする意見が優勢となりつつあります。
犬の歯は、上アゴに20本下アゴに22本の計42本あります。
小型犬も大型犬も同じ本数だそうです。
歩く時も走る時もかかとはつけず、つま先だけで体重を支えているため疲れ知らずなんだそうです。
聴覚は人間の約6倍ですが、正確な数値は謎です。
人が聞こえない周波数を聞き取ることができ、人の場合の16ヘルツ~2万ヘルツに対して、65ヘルツ~5万ヘルツほど聴こえるそうです。
さらに犬は、物が落下する音に関して人間の400倍の距離を聞き取れるそうです。
嗅覚は人間の約100万倍あるそうです。
100万倍の嗅覚とは、60センチの水槽にスポイトで酢を1滴たらしただけで分かってしまうぐらいの性能です。
知能は人間でたとえると2~3歳児位ですが、記憶力は抜群なんだそうです。
犬の舌の面積や体積が変わるそうで、必要に応じて面積を変えて体内の熱や水分の発散をコントロールしています。
犬も汗をかくそうですが、舌と鼻と足の肉球だけだそうです。
こんなにすごい犬の能力ですが、味覚は人と違い発達していなく、感じるのは、甘い、塩辛い、酸っぱい、苦いの4種類だけだそうで、細かな味の違いは判らないそうです。
さらに犬は猫舌だそうです、これは野生の世界では体温以上の熱いものを食べることがないため、犬だけでなく野生で暮らしているすべての生物は猫舌だそうです。
犬も夢を見る事があり、動物心理学者の実験や研究で証明されています。
寝ているときに、突然起き上がったり、走りだしたり、吠えたり、にやけたりするそうです。
日本列島においては犬の起源は不明ですが、家畜化された犬を飼う習慣が日本列島に渡ってきたと考えられています。
縄文時代早期からの遺跡から犬(縄文犬)が出土しています。
その一部は埋葬された状態ですが、多数例は散乱状態で出ており、家族の一員として飼われた犬と、そうでない犬がいたと考えられています。
縄文早期から中期には体高45センチメートル前後の中型犬、縄文後期には体高40センチメートル前後の小型犬に変化し、これは日本列島で長く飼育されたことによる島嶼化現象と考えられています。
なお、1990年代に縄文人と犬との関係の定説に再考を迫る発見がありました。
霞ヶ浦沿岸の茨城県麻生町(現:行方市)で発掘調査された縄文中期から後期の於下貝塚から、犬の各部位の骨が散乱した状態で出土。
犬の上腕骨1点に、解体痕の可能性が高い切痕が確認されました。
調査報告では、犬を食用として解体してた物的証拠と評価しており、日本列島における犬食の起源がさらに遡る可能性が高いです。
弥生時代に犬の埋葬例は激減します。
また、墓に供えられた壺の中に、犬の骨の一部が入っていることがあり、犬が人間の墓の供え物になったことがわかります。
長崎県の原の辻遺跡などでは、解体された痕のある犬の骨が発見され、食用に饗されたことも窺えます。
遺跡からは縄文犬と形質の異なる犬も出土しており、大陸から連れてこられたと考えられています。
『日本書紀』には日本武尊が神坂峠を超えようとしたときに、悪神の使いの白鹿を殺して道に迷い、窮地に陥ったところ、一匹の狗(犬)が姿を現し、尊らを導いて窮地から脱出させたとの記述があります。
そして、『日本書紀』には天武天皇5年4月17日(675年)の条に、4月1日から9月30日の期間、牛・馬・犬・猿・鶏の、いわゆる肉食禁止令を出しており、犬を食べる人がいたことは明らかです。
なお、長屋王邸跡から出土した木簡の中に子を産んだ母犬の餌に米(呪術的な力の源とされた)を支給すると記されたものが含まれていたことから、長屋王邸では、貴重な米を犬の餌にしていたらしいですが、奈良文化財研究所の金子裕之は、「この米は犬を太らせて食べるためのもので、客をもてなすための食用犬だった」との説を発表しました。
奈良時代・平安時代には貴族が鷹狩や守衛に使う犬を飼育する職として犬養部(犬飼部)が存在しました。
平安京では、犬が人間の残飯や排泄物を食べていました。また、埋葬されない人の死体が放置され、犬に食われることが珍しくありませんでした。
鎌倉時代には武士の弓術修練の一つとして、走り回る犬を蟇目矢(ひきめや。丸い緩衝材付きの矢)で射る犬追物や犬を争わせる闘犬が盛んになりました。
肉食忌避の観念がある一方で、犬を食べる風習も廃れてはおらず、室町時代の草戸千軒町遺跡からは食用にした跡が残る犬の骨が見つかりました。
浄土真宗の宗祖親鸞は『大般涅槃経』を参考に浄肉(食べてもよい肉)・不浄肉(食べてはいけない肉)の区別を行った際、犬肉を猿肉などとともに不浄肉に分類するなど、犬肉食を忌避する考え方も生まれました。
南北朝時代以降には軍用犬として犬を活用する武将も現れ、『太平記』には越前国鷹巣城(現・福井県高須山)攻防戦に於いて、南朝方の守将、畑時能が愛犬「犬獅子」と2人の従者と共に寄せ手の北朝方の砦を攻め落とす逸話が記述されており、江戸時代に歌川国芳が干支の動物と縁の深い歴史上の人物を浮世絵に描いた『武勇見立十二支』にて戌年に畑時能と犬獅子が描かれるなど、人々に広く知られる存在となりました。
戦国時代には武蔵国の武将太田資正が、岩槻城と松山城の緊急連絡手段として伝令犬を用い、北条氏康方の包囲を突破して援軍要請に成功し、度々撃退していた逸話が『関八州古戦録』や『甲陽軍鑑』に記述されています。
太田資正の伝令犬戦術は「三楽犬の入替え」と呼ばれ、日本における軍用犬運用の最初の例とされている他、現代の戦国時代をモチーフとしたサブカルチャー作品でも太田資正は犬と共に描かれる事が多いといった影響を残し続けています。
江戸幕府中期、江戸では野犬が多く、赤ん坊が食い殺される事件もありました。
5代将軍・徳川綱吉は戌年の戌月の戌の日の生まれであったため、彼によって発布された「生類憐れみの令」(1685- 1709年)において、犬は特に保護(生類憐れみの令は人間を含む全ての生き物に対する愛護法令)され、元禄9年には犬を殺した江戸の町人が獄門という処罰まで受けています。
綱吉は当時の人々から「犬公方」(いぬくぼう)とあだ名されました。
綱吉自身大の愛犬家で狆を百匹飼い、駕籠(かご)で運ばせていました。
この法令が直接適用されたのは幕府直轄領でしたが、間接的に適用される諸藩でも将軍の意向に逆らうことはできませんでした。
綱吉の後を継いだ徳川家宣の治世当初に生類憐れみの令は廃止されました。
天明の大飢饉により米価が高騰し深刻な米不足が起こった際、江戸北町奉行・曲淵景漸がイヌやネコの肉の価格を示して「米がないならイヌやネコの肉を食え」と発言し町人の怒りを買い、江戸市中で打ちこわしまで引き起こす結果となりました。
幕末・明治維新期には開国・文明開化により西洋人が日本へ渡り、西洋の文物ももたらされ洋犬を飼う習慣が流行し、ともに1873年刊行の昇斎一景『開花因循興発鏡』や歌川芳藤『本朝舶来戯道具くらべ』など浮世絵にも洋犬が描かれています。