今日は何の日?
11月12日は洋服記念日
1872年のこの日、「礼服には洋服を採用す」という太政官布告が出されました。
これは、公家・武家、いわゆる裃(かみしも)や束帯(そくたい)などの和式の礼服を廃止し、洋服の使用を促進するというものです。
全日本洋服共同組合連合会が1972年に制定しました。
洋服とは、西洋服の略で、西洋風の衣服のことで、英語の western clothes におおむね該当します。
ヨーロッパの服飾に起源を持ちますが、列強各国の各地進出に伴なって、アメリカ大陸やオセアニア等の植民地をはじめ、世界各地で広く用いられ、19世紀末以降の近代化とともに、中国や日本等でも使用されるようになりました。
この過程で、日本語や中国語、朝鮮語において、伝統的な衣服(日本の場合和服・着物)に対する概念として、これらの西洋起源の衣服が「洋服」と呼ばれるようになりました。
それ以前には、オランダ(阿蘭陀)から来きた服という意味で蘭服(らんふく)、南蛮服(なんばんふく)、紅毛服(こうもうふく)と呼ばれていました。
洋服は各地の伝統的な服飾の要素も取り入れながら発展し、民族服の形成・変化にも影響を与えました。
現在では、背広やドレス、シャツとズボンやスカートの組み合わせ等の他、アメリカ合衆国を中心に発展した簡素なTシャツ、ジーンズ等が世界中で使用されています。
今日の日本では、洋服が一般的になったため、単に「服」といえば洋服を、「着物(きもの)」といえば和服を指すことが多いです。
何百年も前から人々は自分を表す為に洋服や被服をまとってきました。
縫製技術から見ると、和服が直線に裁った生地を縫い合わせるのが基本であるのに対し、洋服は身体の形状に合わせて曲線的に裁った生地を縫い合わせるのが基本です。
16世紀、ポルトガルやスペインからキリスト教宣教師等が日本に渡来すると、日本でも西洋風の服飾(南蛮服)が見られるようになりました。
織田信長は西欧の服や鎧を着ることも好んだことが知られています。
江戸時代、日本は鎖国政策を敷いたため、基本的には人々が西洋風の衣服を目にすることはありませんでしたが、長崎の出島に駐留するオランダ人等の服装は、出島以外でも、オランダ商館長の江戸参府等を通じて目にすることができました。
1858年の日米修好通商条約により各地の港が開かれると、役人や通訳などの直接外国人と交渉をする立場の人間を中心として、洋服を着用するものが現われました。
江戸時代にはキリスト教に対する禁教令により、洋服を着ることは忌避されましたが、幕末に至り軍備の西洋化を進める諸藩や幕府では、西洋式の軍服を導入しました。
1864年、禁門の変を理由に長州征伐の兵を挙げるに際しては、軍服を西洋式にすることを決め、小伝馬町の商人である守田治兵衛が2000人分の軍服の製作を引き受け、試行錯誤しながらも作り上げました。
日本においての洋服の大量生産は、記録に残る限りこれが初だとされています。
この頃、最後の将軍徳川慶喜がナポレオン3世から贈られた司令官服を着用した写真が残っています。
また長州奇兵隊の兵も西洋式の軍服を着ていました。
明治政府は欧化政策をとり、その一環として伊藤博文は宮中での洋服着用を推進しました。
1872年の太政官布告339号(大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為ス等ノ件)により、男性については、ヨーロッパの宮廷服にならった大礼服などが定められました。
またその前年の1871年の散髪脱刀令(太政官399号)により髪型も従来の髷から散切り頭が一般にも広まりました。
以後、警官・鉄道員・郵便夫等の制服、また教員の服装などが西洋化しています。
制服の製造またその払い下げ品を扱うところから、洋服の仕立て屋や貸し出し店が各地にできました。
大正時代にサラリーマン層が成立すると、公の場では少なくとも男性は洋装をしネクタイを着用するのが当たり前となりました。
しかし、自宅に戻ると和服を着て過ごす人も多く、職業によっては仕事の際にも和服を着用しました。
一方、女性の洋装化は遅れ、上流階級では鹿鳴館の舞踏会で着用されたほか、1886年に女性の大礼服などが定められましたが、一般には和服が着用されました。
大正時代に入ると、大正デモクラシーの影響下、モダン・ガール(モガ)や、バスの女車掌などの職業婦人は洋服を着ました。
また、1923年の関東大震災では、身体の動作を妨げる構造である和服を着用していた女性の被害が多かったことから、翌1924年に「東京婦人子供服組合」が発足し、女性の服装の西洋化を目指す運動が盛んになりました。
1927年9月21日には、同組合主催により、当時の銀座三越において日本国内初のファッションショーが開催されます。
これは一般からデザインを募ったファッションショーでもありました。
また、日本橋にあった「白木屋」デパートにて発生した大規模火災で、和装の人々に被害が多かったという認識が示されたことも相まって、従業員の服装を西洋式に改める百貨店が増加しました。
1930年代後半から1940年代前半にかけては、太平洋戦争の戦時体制下の物資欠乏により繊維・衣服の統制が極端に進みました。
1940年に国民服令によって男性の国民服が定められました。
1942年からの衣料切符制度においてスーツの点数が高かったこともあり、流通する衣服の大半が点数の低い国民服となりました。
女性には和服と洋服を折衷した婦人標準服が制定されましたが普及せず、和服を作り変えたもんぺを着用しました。
戦争による壊滅的な打撃を受けた日本は、敗戦後はアメリカなど連合国からの援助に頼ることになりました。
食料などと同様、衣料品も不足し、GHQの放出衣料(古着)を通して、洋服が流通し、「占領軍ファッション」として流行しました。
昭和博物館は昭和期の最大の事件は、日本人の洋装化であると述べています。
ナイロンをはじめ化学繊維の統制撤廃の後、化学繊維を使用した衣服が作られ始めるのは1951年頃で、繊維産業でもビニロンやテトロン(ポリエステルの商品名)、レーヨンなどの化学繊維の開発、製造が進みました。
既製服の製造・販売業も興隆し、1960年代以降、衣料の大量消費の時代に入りました。