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12月30日は正月飾りの日

 

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今日は何の日?

12月30日は正月飾りの日

 

鏡餅・しめ縄・門松、これが正月飾りの定番アイテムです。


鏡餅にはさらに、ゆずり葉や昆布、橙が必要になります。

 

基本さえ守れば、アレンジは自由とされています。

 

実際には正月飾りは26日~28日あたりに済ませておくのが良いとされています。

 

 
お正月の飾りは、旧年の年神様に感謝しつつ、新しい年神様をお迎えするための習わしです。

 

お正月の飾りを31日に飾るのは「一夜飾り」と言って、年神様に失礼とされています。

 

また、29日は「苦立て」に通じるという事であまり縁起が良くないとされ、こちらも避けた方がいいとされています。

 

正月飾りを始める時期はだいたいクリスマスが終わった、26日~28日、もしくは30日が良いというのが一般的です。

 

 


鏡餅とは、日本の伝統である、餅を神仏に供える正月飾り(床飾り)であり、 穀物神である「年神(歳神)」への供え物であり、「年神(歳神)」の依り代です。

 


鏡餅という名称は、昔の鏡の形に似ていることによります。

 

昔の鏡は青銅製の丸形で、神事などに用いられるものでした。

 

三種の神器の一つ、八咫鏡を形取ったものとも言われます。

 

また、三種の神器の他の二つ、八尺瓊勾玉に見立てた物が橙(ダイダイ)、天叢雲剣に見立てた物が串柿であるとされます。

 


平安時代には既に存在し、当時に書かれた源氏物語には『歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取り寄せて』の一節があります。

 

鏡餅が現在のような形で供えられるようになったのは、家に床の間が作られるようになった室町時代以降です。

 

武家では、床の間に具足(甲冑)を飾り、その前に鏡餅を供えました。

 

鏡餅には、譲葉・熨斗鮑・海老・昆布・橙などを載せるのが通例となり、これは具足餅(武家餅)と呼ばれました。

 

 

 

注連縄(しめなわ)は、神道における神祭具で、糸の字の象形を成す紙垂(しで)をつけた縄をさします。標縄・七五三縄とも表記します。

 


現在の神社神道では「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を持ちます。

 

また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓ったりする意味もあります。

 

御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿る印ともされます。

 

古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印にもなります。

 

御旅所や、山の大岩、湧水地(泉水)、巨木、海の岩礁の「奇岩」などにも注連縄が張られます。

 

また日本の正月に、家々の門や、玄関や、出入り口、また、車や自転車などにする注連飾りも、注連縄の一形態であり、厄や禍を祓う結界の意味を持ち、大相撲の最高位の大関の中で、選ばれた特別な力士だけが、締めることができる横綱も注連縄です。

 

江戸時代、お蔭参りのために使わした「お蔭犬」にも、その目印として首に巻かれることがありました。

 

現在でも水田などで雷(稲妻)が落ちた場所を青竹で囲い、注連縄を張って、五穀豊穣を願う慣わしが各地に残ります。

 

 

しめ縄にはいくつか起源があります。


日本神話

天照大神が天岩戸から出た際、二度と天岩戸に入れないよう太玉命が注連縄(「尻久米縄」)で戸を塞いだのが起源だとされています。

稲作信仰

稲作信仰は神道の根幹をなす一つであり、古くから古神道にも存在し、縄の材料は刈り取って干した稲藁、又は麻であり、稲作文化と関連の深い風習だと考えられています。

古神道

神が鎮座する(神留る・かんづまる)山や森を神奈備といい信仰しました。後に森や木々の神籬(ひもろぎ)や山や岩の磐座(いわくら)も、神が降りて宿る場所あるいは神体として祀られ、その証に注連縄がまかれました。

 

 


門松は、正月に家の門の前などに立てられる松や竹を用いた正月飾りです。

 

松飾り、飾り松、立て松とも言います。

 

古くは、木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代という意味合いがあります。

 


神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきたことなどもあり、日本でも松をおめでたい樹として、正月の門松に飾る習慣となって根付いていきました。

 

平安時代の宮中では「小松引き」という行事が行われました。

 

これは、初子の日に外出して松の小木を引き抜くという貴族の遊びで、持ち帰った「子の日の松」を長寿祈願のため愛好する習慣があり、門松はこれが変化したものと考えられています。

 

現在も関西の旧家などでは、「根引きの松」という玄関の両側に白い和紙で包み金赤の水引を掛けた根が付いたままの小松(松の折枝は略式)が飾られます。

 

長治年間(1104年 - 1105年)に撰された『堀河百首』には藤原顕季が門松を詠んだ歌が収められており、この頃には京都で門松を飾る風習があったことが分かります。

 

14世紀中頃の『徒然草』にも「大路のさま、松立てわたして、花やかにうしれげなるこそ、またあはれなれ」と記され、16世紀中頃の上杉本『洛中洛外図』にも門松が描かれています。