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12月12日は漢字の日

 

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今日は何の日?

12月12日は漢字の日

 

「1(いい)2(じ)1(いち)2(じ)」=「いい字1字」の語呂合わせです。
日本漢字能力検定協会が1995年に制定しました。


この日には、全国から募集した、この年の世相を象徴する「今年の漢字」が発表されます。

 

 

漢字は、中国古代の黄河文明で発祥した表語文字。四大文明で使用された古代文字のうち、現用される唯一の文字体系です。


また史上最も文字数が多い文字体系であり、その数は10万字を超え、他の文字体系を圧倒します。


古代から周辺諸国家や地域に伝播して漢字文化圏を形成し、言語のみならず文化上の大きな影響を与えました。


現代では中国語、日本語、朝鮮語の記述に使われます。


20世紀に入り、漢字文化圏内でも日本語と中国語以外は漢字表記をほとんど廃止しましたが、なお約15億人が使用し、約50億人が使うラテン文字についで、世界で2番目に使用者数が多いそうです。

 

 

中国に朝貢をしていた朝鮮、琉球王国、ベトナムでは、古代中国から漢字を輸入して使用しました。

 

日本もまた中国の勢力下に入ったことは無かったですが、漢字を輸入し使用しています。


また、シンガポール、マレーシアのように、中国から移住した人たちが多く住み、漢字を使用している地域があります。

 

これらの漢字を使用する周辺諸国を包括して漢字文化圏と呼ぶ。


日本では漢委奴国王印や古墳時代の稲荷台1号墳に埋蔵されていた鉄剣の銘文記載が、日本における初期の漢字事例とされており、また近年の研究で、朝鮮半島を経由して伝来した文字・使用方法が存在する可能性が指摘されています。


現在、漢字は、中国・台湾・日本・韓国・シンガポールなどで、文字表記のための手段として用いられています。

 

しかし、近年の各国政府の政策で漢字を簡略化したり使用の制限などを行ったりしたため、現在では、これらの国で完全に文字体系を共有しているわけではありません。


日本では仮名、韓国ではハングルなど漢字以外の文字との併用も見られます。

 

 

ただし韓国では、現在は漢字はほとんど用いられなくなっています。


また、北朝鮮やベトナムのように、漢字使用を公式にやめた国もあります。


しかし、漢字は使わなくなっても漢字とともに流入した語彙が各言語の語種として大きな割合を占めています。


また漢字音は地域・時代によって変化し、地域により発音が違います。


しかしながら、淵源となる中古音から各地域の音韻変化に従って規則的に変化しているため、類推可能な共通性を持っています。


また地域により発音が違う場合でも同じ字で表すことができるため、国境を越えて漢字を使った筆談でコミュニケーションを取ることもあります。


字形の複雑さから、手書きする場合には、書き間違いや省略などによって字体は場所と時代によって少なからず変化してきました。


そうして変化した字体のうち、ある程度の範囲に定着した俗字が各国において正字に選ばれ、字形に僅かな差異が見られる場合があります。


また地域音や地域特有の字義を表すための国字・方言字や異体字も多く作られてきました。

 

日本の「国字」(和製漢字)もその一種である。

 

 

伝承によると、中国における文字の発祥は、黄帝の代に倉頡が砂浜を歩いた鳥の足跡を参考に創った文字とされます。


また『易経』には聖人が漢字を作ったと記されています。


考古学的に現存する最古の漢字は、殷において占いの一種である卜(ぼく)の結果を書き込むための使用された文字です。

 

これを現在甲骨文字(亀甲獣骨文)と呼びます。


甲骨文以前にも文字らしきものは存在していましたが、これは漢字と系統を同じくするものがあるか定かではありません。


当時の卜は亀の甲羅や牛の肩胛骨などの裏側に小さな窪みを穿(うが)ち、火に炙って熱した金属棒(青銅製と言われる)を差し込みます。


しばらく差し込んだままにすると熱せられた表側に亀裂が生じます。


この亀裂の形で吉凶を見るのですが、その卜をした甲骨に、卜の内容・結果を彫り込んだのです。


現在存在する中での最古の漢字は、殷墟から発掘される甲骨などに刻まれた甲骨文字です。


その内容は殷王朝第22代武丁の頃から書かれたものであるため、それ以前には新石器時代の遺跡等で発見される記号はあっても、文字として使用できる漢字が出来上がったのは約3300年前のこの頃だと考えられます。


この甲骨文字は物の見たままを描く象形文字であり、当時の甲骨文字は絵に近い様相を持つものも多かったようです。


その一方で、ある種の事態を表現する動詞や形容詞の文字も存在しました。


例えば、「立」の原型である人が地面を表す横棒の上に書かれた字(指示文字)、女性が子供をあやす様から「好」や人が木の袂(たもと)にいる様から「休」などの字(会意文字)も既に含まれていました。


さらに、同音の単語を既にある別の字で表す代用字も既にあり、例えば鳥の羽を示す「翼」の原型は、同音で次のことを示す単語に流用され、これが後に「翌」となりました。


このように、既に現在の漢字の書体に似通っている部分が見受けられ、非常に発展したものであり、おそらくはこれ以前から発展の経路を辿ってきたものとみられます。


最古の漢字には左右や上下が反転したものや、絵や記号に近い部品が付けられているものなど、現在の常識では考えられない(当然ながら現在では使用されていない)漢字が存在します。


その後、青銅器に鋳込まれた金文という文字が登場しました。


周の時代になると、文字数は飛躍的に増加しました。


中国では「清らかで澄んだ」様子を セイ (tseng)と呼び、新芽が井戸端に生えた様子から「青」に連なる象形文字を用いました。


この「セイ」という発音と文字「青」は形容詞だけでなく「清らかで澄んだ」ものを呼ぶ様々な名詞にも使われましたが、これらにもそれぞれの漢字が割り当てられるようになりました。


水が「セイ」ならば「清」、日差しが「セイ」ならば「晴」などです。このような漢字の一群を「漢字家族」と言います。

 


侖(liuan-luan、リン-ロン)も短冊を揃えた様子から発し「揃えたもの」を示す象形文字だが、これも車が揃えば「輪」、人間関係が整っておれば「倫」、理論整然としていれば「論」という漢字が作られました。


このように、音符に相当する「青」「侖」などと、意味の類別を表す意符が組み合わさった「形声文字」が発達しました。


紀元100年頃に後漢の許慎が著した『説文解字』は中国初の字書であり、9353字の漢字について成り立ちを解説していますが、この中の約8割は形声文字です。


このような文字形成の背景には、中国では事物を感性的に捉え、枠に嵌(は)め込む習慣が影響しているとも言います。


このため、音素文字や単音文字を作り出す傾向が抑えられたと考えられます。


周が混乱の時代を迎えると、漢字は各地で独自の発展をすることになります。


その後意義・形ともに抽象化が進み、春秋戦国時代になると地方ごとに通用する字体が違うという事態が発生しました。


そして天下を覇した秦の始皇帝が字体統一に着手、そして生まれたのが小篆です。


秦は西周の故地を本拠地にしたのであり、その文字は周王朝から受け継がれたものだったため、その系統性が保持されたといえます。


小篆は尊厳に溢れ難解な書式でした。


秦そして後の漢代になると、下級役人を中心に使いにくい小篆の装飾的な部分を省き、曲線を直線化する変化が起こり、これが隷書となりました。


毛筆で書かれる木簡や竹簡に書き込む漢字から始まった隷書は、書物から石碑に刻まれる字にまで及びました。

 

この隷書を走り書きしたものは「草隷」と呼ばれましたが、やがてこれが草書となりました。


一方で、隷書をさらに直線的に書いたものが楷書へ発達し、これをさらに崩して行書が生まれました。


六朝から唐の時代には書写が広まり、個人や地域による独特の崩れが発生するようになり、科挙の制では「正字」という由緒正しい漢字が求められましたが、一般庶民では「通字」や「俗字」と呼ばれる漢字が多く使われました。


宋の時代には手工業者や商人など文字を仕事で使う層が台頭し、俗字が幅広く用いられました。


さらに木版技術の発展により、楷書に印刷書体が生まれ、宋朝体と呼ばれる書体が誕生しました。

 

明代から清代にかけて、康熙字典に代表される明朝体が確立しました。


現在、書籍やコンピューター文書などの印刷に使用されている漢字の書体は明の時代に確立された明朝体が中心です。

 

この起源を遡ると、後漢末期に確立された楷書に行き着きます。


ただし現代中国ではさらに簡素化を進めた簡体字が多く使われます。

 

「飛」→「飞」のような大胆な省略、「機」→「机」のような同音代替、「車」→「车」のような草書体の借用から、「從」(従)→「从」のような古字の復活まであります。


基本的に10画以下に抑えるため、民間に流布していた文字のほかに、投書を集め「文字改革委員会」が選択する事で決められました。