今日は何の日?
1月18日は都バスの日
東京都交通局が制定しました。
1924年のこの日、東京市営の乗合バスが東京駅への2系統で営業を開始しました。
このバスはT型フォード11人乗りで、「円太郎」の愛称で親しまれ、都営バスカードのデザインにも使われています。
都営バスは、東京都が経営する公営バス。都バスと呼ばれます。
東京都交通局内にバスを担当する「自動車部」(都電・都営地下鉄と日暮里・舎人ライナーは電車部)があります。
東京都区部と青梅市を主な営業エリアとする一般乗合バス事業の他、渋谷・南千住に集約配置されている観光車両(5台)、乗合用車両の転用による貸切バス事業も行っています。
2002年に乗合バスの営業区域の規制がなくなり、事業者間の競争が激化しました。
そのため、2003年から毎年4月に、経営効率化のために一部事業所で東京都が出資する民間事業者「はとバス」への業務管理委託を行っています。
また、2003年より江東・江戸川・深川の各営業所で江東区内の中学校登下校用のスクールバスの運行を受託しています(年度によりうち2営業所が運行)。
東京都によるバス事業は、大正13年1月18日に東京市電気局が暫定的に乗合バス(東京市営バス)事業を開始したことに端を発します。
これは、大正12年9月1日に発生した関東大震災により、東京市が運営していた東京市電は大打撃を受け、復旧には相当な期日がかかることが見込まれたため、市電の代替輸送機関としてでした。
最初に開通した路線は東京駅と渋谷駅(中渋谷)、巣鴨駅(巣鴨)と東京駅を結ぶ路線で、運行開始時はワンマン運転を採用し、停留所で切符を販売する形でした。
また、当時の車体は明治初期の乗合馬車を連想させました。乗合馬車自体を「円太郎」と呼んでいたのに因み、この乗合馬車然とした市営バスは円太郎バスと呼ばれるようになりました。
このように始まったバス事業は好調で、車庫の増設・車両の増備が図られることとなりました。
ただし、市電の復旧により利用者の減少が見られると、当初の目的が達成されたため許可期限だった1924年7月末に運行を終える方向性でした。
しかし、市バス利用者が定着してきたこと、購入車両や設置した車庫などの投資、運転手などの従業員の処遇などの問題もあり、東京市会により運行が継続されることが決定しました。これに伴い、運行時間や運転系統の見直しが図られることとなりました。
このころ、既に東京市内には東京乗合自動車が経営する乗合バスが運行しており、好成績を上げ、市電の強敵となっていました。
同社のバスは青色(実際は深緑色)に塗られていたため、「青バス」と呼称され、また車掌に10代後半 - 20代後半の女性を採用しましたが、制服の襟が白色だったことから「白襟嬢」と呼ばれ、注目を集めていました。
東京市は、これに対抗して当初ワンマン運転だった乗合バスに女性車掌を採用しました。
こちらは制服の襟が赤色だったことから「赤襟嬢」と呼ばれるようになります。なお、女性車掌の乗務は戦後、バスのワンマン化が進む中でも1980年代ごろまで散見されました。
日中戦争が始まるにつれ、物資の統制が進むようになり、燃料を手に入れることが次第に困難な状況へとなっていきました。
この中で、木炭車の導入をはじめとした代燃化を進めていきます。昭和14年には市電式木炭ガス発生炉を開発し、これをバス車両に取り付けていくことが進められました。
また、陸上交通事業者が乱立していることが戦時体制下では非効率であると判断され、どのような形態にしていくのかが国により議論されていくこととなりました。
1938年には陸上交通事業調整法(陸調法)が施行され、この法律に基づく委員会により民間と東京市の対立があったものの、東京市内と周辺地域について以下のような調整案がまとまることとなりました。
1旧市内は、路面交通事業者は東京市、地下鉄は新設する特殊機関(のちの帝都高速度交通営団、現在の東京地下鉄)に統合。
2旧市内以外は4ブロックに分けて統合。ただし、地域相互の連絡、規格統一を行いました。
3省線(後の国鉄・国電・E電)は除外。
この案をもとに、東京市は旧市内のバス事業者の統合を図った結果、1942年2月1日までに、東京市は市営バスのライバルだった「青バス」こと東京地下鉄道のバス部門、東京高速鉄道傘下の「黄バス」こと東京環状乗合自動車、城東乗合自動車、王子電気軌道の全路線、そして京王電気軌道と東京横浜電鉄のバス部門と東京地下鉄道系列だった葛飾乗合自動車のそれぞれの旧市内路線、大東京遊覧自動車を、政府による裁定指令などもあった上で買収を完了しました。
これで、東京市は天王洲 - 渋谷駅 - 新宿駅 - 池袋駅 - 赤羽駅 - 荒川大橋 - 千住新橋 - 小松川橋 - 今井橋に囲まれた東京中心部の乗合バス事業を独占することとなりました。
1942年に電力統制が敷かれたため電気事業が分離され、1943年10月1日には東京都制が施行され、東京市電気局は東京都交通局に名称を変えることとなりました。
戦時中は、工場への輸送などの需要をさばく必要が生じていたことと、物資の不足や空襲などによる施設、車両への被害なども相まって、運行する路線も限られたものへと縮小することとなりました。
第二次世界大戦後は、わずか12系統が運行されるだけとなり、浜松町・渋谷・新宿・大塚・千住・大島・堀之内・江東の8営業所と4つの分車庫が存在するのみでした。
車両も木炭車を中心とした代燃車両が用いられていましたが、満足に走ることのできる車両は多くありませんでした。
このような中で、米軍から余剰のトラックやトレーラーが日本国内のバス事業者に払い下げられました。東京都交通局には約400台が割り当てられ、復興に大きく貢献します。
このような戦災復興中の1947年には、現在ではほとんど運行されなくなった民営バス会社との相互直通乗り入れが始まります。
これは陸調法の関係や営業権の問題も絡み、なかなか進みませんでしたが、GHQによる勧奨もあり、推進されることとなりました。
1948年には、休止中だった遊覧バス事業を新日本観光(現・はとバス)へ譲渡しました。
しかし、バスによる観光客の増加が見込まれたため、1953年に新たに免許を申請することとなり、1954年には観光バス事業を再開しました。
1952年、地方公営企業法の適用を受けます。この後は乗客の増加などもあり経営的には順調でしたが、1961年度以降は赤字基調となり、度重なる運賃の値上げによっても解消することは出来ませんでした。その中で、経営改善を行うために路線の再編やワンマンバス化などが行われることとなりました。
さらに、モータリゼーションの進行とともに、都内でも郊外からの交通需要の増加などにより、慢性的な渋滞が都心部で発生するようになりました。
この影響もあいまって都電は現在の荒川線を残し、1963年から1972年にかけて次々に廃止され、無軌条電車(通称トロリーバス)も廃止されました。
これらの多くは代替輸送路線として都営バス路線が設定され、37系統が設定されました。この都電代替路線の多くは、現行の都営バスの基幹となっています。
一方、青梅地区でのバス事業は1949年に始まりました。
当時、青梅地区は西東京バスと西武バスで運行が行われており、成木地区への路線が開設された以外は、この二者による独占体制でした。
しかし、青梅市の山間部で人口減少が進み、1975年には一部を除き西武バスが撤退することとなりました。
このため、青梅市は東京都交通局に要請、 "成木住民の足" を考慮して引き継ぐこととなり、青梅地区の路線は一部を除きほぼ現在の形へとなりました。