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1月4日は金の鯱鉾(しゃちほこ)の日

 

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今日は何の日?

1月4日は金の鯱鉾の日

 

1937年、名古屋城の天守閣から金の鯱鉾の尾の部分の金板2枚が盗まれました。金板2枚でうろこ58枚分に相当します。


2日後の6日に盗まれたことがわかり、27日に、盗みの前科がある佐々木賢一が逮捕されました。

 

 
鯱(しゃち)とは、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物です。

また、それを模した主に屋根に使われる装飾・役瓦の一種です。

 

一字で鯱(しゃちほこ)・鯱鉾とも書かれます。

江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では魚虎(しゃちほこ)と表記されています。

 

 

大棟の両端に取り付け、鬼瓦同様守り神とされました。建物が火事の際には水を噴き出して火を消すといいます。

 

本来は、寺院堂塔内にある厨子等を飾っていたものを織田信長が安土城天主の装飾に取り入り使用したことで普及したといわれています。

 

現在でも陶器製やセメント製のものなどが一般の住宅や寺院などで使用されることがあります。(金鯱が京都の本圀寺などにあります。)

 

瓦・木・石・金属などで作られます。城の天守や主要な櫓や櫓門などにはよく、陶器製(鯱瓦)のものや、銅板張木造のものが上げられます。

 

城郭建築に用いられている銅板張木造鯱のもので最大の現存例は松江城天守(高さ2.08メートル)のものといわれています。

 

青銅製(鋳造)のものでは、高知城天守のものがあります。

 

 

粘土製の鯱瓦は、重量軽減や乾燥時のひび割れを避けるために中を空洞にして作られているため、非常に壊れやすいです。

 

棟から突起した心棒と呼ばれる棒に突き刺し、補強材を付けて固定されます。

 

木造の鯱は、木製の仏像を造る原理に木を組み合わせて、ある程度の形を造っておき、防水のため、外側に銅板などを貼り付けて細かい細工なども施します。

 

粘土製と同じく心棒に差し込み補強材を付けて固定されます。

本来の目的は避雷です。

 

 

金色の鯱のことを特に金鯱といいます。

金鯱には陶器製の鯱瓦に漆を塗り、金箔を貼り付けたものが多かったようです。

 

一般の金箔押鯱瓦は、岡山城天守に創建当初載せられたものなどがあります。

 

特異なものでは木造の鯱に銅板の代わりに金板を貼り付けたものが上げられることがあります。

 

構造は銅板張りの木造鯱と同じです。

 

現在の名古屋城大天守に上げられているものがそれです。

同じ仕様のものは、徳川大坂城天守や江戸城天守などに使用されました。

 

 

城郭建築の天守には、金箔押の鯱瓦と金板張りの木造鯱の例があります。

 

金箔押の鯱瓦では、創建当初に岡山城天守へ載せられたとされるものを再現したものが見られます。

 

金板張りの木造鯱では、現在は名古屋城大天守へ載せられていたものを復元したもののみ見ることができます。

 

また、現代では金箔や金の板を張ったものは少ないですが、寺院や住宅、商業施設などにもあげられている例があり、本圀寺(京都府京都市)に見られます。

 

 
金箔押鯱瓦
金箔押の鯱瓦は粘土製の素焼きの鯱瓦に漆を塗り、金箔を施したものです。

広島城大天守や岡山城天守、松本城大天守など豊臣恩顧と呼ばれる大名や有力な大名の一部の居城の天守などに上げられた例があります。

城によって鯱瓦を金箔押とする程度であり、通常の鯱瓦を上げていた城が多かったとみられています。

 

金板張木造鯱
金板張の木造鯱は、徳川家康によって初代江戸城天守(10尺、約3メートル)に上げられたものが初めとされているもので、金属板張の木造鯱の一種です。

後に名古屋城大天守、徳川期江戸城の後2代の天守、徳川期大坂城天守などにほぼ同様、同規模のものが上げられたというのみで類例は少ないようです。

 

 

鯱に初めて金を施したのは、織田信長の安土城天守とも羽柴秀吉の大坂城天守ともいわれ、豊臣政権下では、許可を得ずに瓦などに金を施すことは許されていなかったと見られています。

 

関ヶ原の戦い以降、豊臣政権の弱体化により権力が家康に移ると実質の築城規制の解禁がにわかに起こり、同時に天守建設が流行すると金鯱(金箔押鯱瓦)や金箔瓦を上げる大名が増えていきましたが、徳川政権(徳川幕府)が固まると、築城に関する規制が起こり始め、元和元年(1615年)以降は、築城・天守造営の原則禁止にともない、金箔や金板を張った鯱を上げられることはほとんどなくなり、建物の修築後は、財政難から質を落としたり、まったく張らないようにした城が多かったようです。