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1月9日はクイズの日(とんちの日)

 

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今日は何の日?

1月9日はクイズの日(とんちの日)

 

とんちで有名な一休さん(一休宗純)から、「いっ(1)きゅう(9)」の語呂合せです。


一休宗純禅師は室町時代中期の臨済宗の僧侶で、京都・大徳寺の住持でしたが、諸国を漫遊しました。

 

クイズの日、とんちの日という事なので記事の最後にひっかけなぞなぞを出題しています。よろしければ記事を読んだ後に挑戦してみてください。

 

 

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られています。

 

 

出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されています。

 

『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けましたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだといいます 。

 

幼名は、後世史料によると千菊丸。長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号しました。戒名は宗純で、宗順とも書きます。一休は道号です。

 

 

6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられます。

 

早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩『長門春草』、応永15年(1408年)15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となりました。

 

応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改めます。

 

ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休も自殺未遂を起こしています。

 

応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となります。

 

「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かります。

 

なお「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、「無漏路(むろじ)」とは悟り(仏)の世界を指します。

 

応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟します。

 

華叟は印可状を与えようとしますが、一休は辞退しました。

 

華叟はばか者と笑いながら送り出したといいます。

 

以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送りました。

 

正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位しましたが、この即位には一休の推挙があったといいます。

 

文明2(1470年)、摂津国住吉大社神宮寺の新羅寺本堂・薬師堂で森侍者(しんじしゃ)と出会います。

 

文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられました。

 

寺には住みませんでしたが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建されました。

 

また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになりました。

 

天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたといいます。

 

文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)おいてマラリアにより死去しました。

 

享年88。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わっています。

 

墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれますが、宮内庁が御廟所として管理している陵墓であるため、一般人が墓所前の門から内部への立ち入りはできませんが、廟所の建物は外部からでも見ることができます。参拝は門の前で行います。

 

 

一休宗純には、以下のような逸話が伝わっています。

  • 印可の証明書や由来ある文書を火中に投じた。
  • 男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、盲目の女性である森侍者(森女)や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。
  • 木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を風刺したものであったとされる。

  • 親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしたという。

  • 正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。

こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者に通じ、禅宗の教義における風狂の精神の表れとされています。

 

同時に、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されています。

 

彼の禅風は、直筆の法語『七仏通誡偈』が残されていることからも伺えます。

 

このような戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼びました。

 

江戸時代には、彼をモデルとした『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となりました。

 

一休は能筆で知られます。また、一休が村田珠光の師であるという伝承もあり、茶人の間で墨蹟が極めて珍重されました(なお、珠光の師という説は現在の研究ではやや疑わしいとされています)。

 

著書(詩集)は、『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『骸骨』など。東山文化を代表する人物でもあります。また、足利義政とその妻日野富子の幕政を批判したことも知られています。

 

 

 一休宗純が遺した言葉

  • 門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
  • 釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな
  • 秋風一夜百千年(秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ)
  • 花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの
  • 女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
  • 世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬを待つばかりなり
  • 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ

なおアントニオ猪木らによって「一休の言葉」として流布されていた「この道を行けばどうなるものか…」に始まる言葉は実際には一休の言葉ではなく文言に多少の相違はあるものの、もとは清沢哲夫の「道」という詩であったと見られます(『無常断章』に収録:一部、抜け・間違いあり)。

 

同じく、一休の遺文として「心配するな、なんとかなる」というものがあったという話も広く知られていますが、原典は不明であり、一休に関する事象と断言できません。ある伝記作家が創作したという説もあります。

 

 

今日はクイズの日、とんちの日という事なので、短い時間でパパっと出来る、ひっかけなぞなぞを出したいと思います。(答えは下の方にあります。)

 ひっかけなぞなぞ

問1 バスに10人乗っています。そのうち、2人降りました。さて、バスの客は何人でしょう?

問2 赤、白、黄色のチューリップが並んで咲いています。赤と黄色の間にあるのは何でしょう? 

問3 富士山に登った人達が、必ずする事とは何でしょう?

問4 エベレストが発見される前、世界で最も高い山は何だったでしょう? 

問5 あなたはバスの運転手です。最初のバス停で5人乗りました。次のバス停で4人降りて3人乗りました。次のバス停で1人降りて2人乗りました。最後のバス停で、赤ん坊を抱えた母親が降りました。では、バスの運転手は何歳でしょう?

 

 

 

ひっかけクイズ答え問1答え「7人(運転手が1人)」 問2答え「と」 問3答え「下山」 問4答え「エベレスト」 問5答え「あなたの年齢(最初にあなたはバスの運転手と言っています)」