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11月17日は将棋の日

 

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今日は何の日?

11月17日は将棋の日

 

江戸幕府8代将軍徳川吉宗が、この日を「御城将棋の日」とし、年に1回の御前対局を制度化しました。


これを記念日として日本将棋連盟が1975年に制定しました。


吉宗は1716年から1745年までの30年間在位しており、「享保の改革」で有名です。

 

 

将棋はチェスやシャンチーなどと区別するため日本将棋ともいい、特に日本の「本将棋」には「持ち駒」の観念があることが特徴とされ、これは諸外国の将棋類似のゲームにも例のない独特のルールです(持ち駒を利用したチェス派生のゲームも考案されています)。


公益財団法人日本生産性本部余暇創研が発行している『レジャー白書』によると将棋人口は推定530万人だそうです。


国際将棋フォーラムや世界コンピュータ将棋選手権の開催などもあり、日本国外への普及も進みつつあります。


ゲーム理論の分類では二人零和有限確定完全情報ゲームです。


現代の日本では特に本将棋(81マスの将棋盤と40枚の将棋駒を使用)が普及しています。


また、はさみ将棋やまわり将棋など本将棋のほかにも将棋の盤と駒を利用して別のルールで遊んだりする遊戯があり変則将棋と総称されます。


歴史的には「大将棋」(225マスの将棋盤と130枚の将棋駒を使用)、「中将棋」(144マスの将棋盤と92枚の将棋駒を使用)、「小将棋」(81マスの将棋盤と42枚の将棋駒を使用)などが指されていたこともあり、これらの将棋は現代の将棋に対して「古将棋」と総称されます。


現代でも中将棋などわずかではありますが愛好家が存在します。


他に小将棋から派生したと推定される朝倉将棋が福井県を中心として残されており、主に福井県内のイベントなどで朝倉将棋の大会が開かれています。

 


将棋の起源は、古代インドのチャトランガ(シャトランガ)であるという説が最も有力とされています。


ユーラシア大陸の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられています。


西洋にはチェス、中国にはシャンチー、朝鮮半島にはチャンギ、タイにはマークルックがあります。


将棋がいつ頃日本に伝わったのかは、明らかになっていません。
囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的です。


伝説としては、将棋は周の武帝が作った、吉備真備が唐に渡来したときに将棋を伝えたなどといわれていますが、後者に関しては、江戸時代初めに将棋の権威付けのために創作された説であると考えられています。


日本への伝来時期はいくつかの説がありますが、早いもので6世紀ごろと考えられています。


最初伝来した将棋は、現在のような平型の駒形ではないという説もあります。


古代インドから直接日本へ伝来したとする説では、古代インドのチャトランガの流れを汲む立像型の駒であったとされています。


一方、6世紀ごろインドから直接ではなく、中国を経由して伝来したという説では、駒の形状は中国のシャンチー(中国象棋)と同様な平型の駒として伝来したという説もあります。


チェスでは古い駒ほど写実的であるとされますが、アラビア等古い地域において平面の駒がみられます。


また今までに立体の日本将棋駒は発見されていません。


他説としては、平安時代に入ってからの伝来であったとする説があります。


インドからアラビアを経て中国のシャンチーそして朝鮮のチャンギ(朝鮮のものは中国由来)が日本に伝わったというものです。


しかし平安時代には既に日本に将棋があったという説が有力だそうです。


また、駒の形の違い(アラビア、中国などは丸型、チャトランガは立体像、日本は五角で方向が決まっています)やこれらの駒を線の交点に置くことなど将棋とどれも大きくことなります。


これに対し、東南アジアのマークルックは銀と同じ動きの駒があるが、歩にあたるビアの動きがあまりに将棋とは違うことが指摘されています。


また、将棋は相手側三列で駒が変化しますがマークルックではクン、ルア、コーン、マー、メットとも「成る」ことはありません。この点も大きく将棋とは異ります。


近年はこの系統の盤戯が中国経由または直接ルートで日本に伝来したとする説があります。


また、中国を舞台とした日本と東南アジアの中継貿易は行われていたことから中国経由の伝来は十分に考えられますが、中国での現代のシャンチーの成立時期は平安時代より遅くまた現代のシャンチーはルールも異なります。


このため現代中国シャンチーが伝播したものではないと考えられています。


いずれにしても日本での、古代の日本将棋に関する文献は皆無で、各説は想像の域を出ません。

 


将棋(本将棋)は、囲碁とともに、江戸時代に幕府の公認となりました。


1612年(慶長17年)に、幕府は将棋指しの加納算砂(本因坊算砂)・大橋宗桂(大橋姓は没後)らに俸禄を支給することを決定し、やがて彼ら家元は、碁所・将棋所を自称するようになりました。


初代大橋宗桂は50石5人扶持を賜わっています。


寛永年間(1630年頃)には将軍御前で指す「御城将棋」が行われるようになりました。


八代将軍徳川吉宗のころには、年に1度、11月17日に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付(11月17日)が「将棋の日」となっています。


将棋の家元である名人らには俸禄が支払われました。


江戸時代を通じて、名人は大橋家・大橋分家・伊藤家の世襲のものとなっていきました。


現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されています。


名人を襲位した将棋指しは、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのがならわしとなりました。


名人を世襲しなかった将棋指しの中にも、天才が現れるようになりました。


伊藤看寿は江戸時代中期に伊藤家に生まれ、名人候補として期待されましたが、早逝したため名人を襲位することはありませんでした(没後に名人を贈られている)。


看寿は詰将棋の創作に優れ、作品集『将棋図巧』は現在でも最高峰の作品として知られています。


江戸末期には天野宗歩が現れ、在野の棋客であったため名人位には縁がありませんでしたが、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになりました。


宗歩を史上最強の将棋指しの一人に数える者は少なくありません。


なお、江戸時代の棋譜は「日本将棋大系」にまとめられています。

 

 

第二次世界大戦後、日本将棋連盟に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) より呼び出しがかかりました。


これは武道などを含めた封建的思想の強い競技や娯楽の排除を狙ったものですが、連盟は知識豊富で勝負勘に優れた関西本部長代理の升田幸三を派遣します。


その席でGHQは「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」と述べました。


それに対して升田は「チェスは捕虜を殺害している。これこそが捕虜虐待である。将棋は適材適所の働き場所を与えている。常に駒が生きていて、それぞれの能力を尊重しようとする民主主義の正しい思想である」
「男女同権といっているが、チェスではキングが危機に陥った時にはクイーンを盾にしてまで逃げようとする」と反論。


この発言により将棋は禁止されることを回避することができました。

 


現代棋界の動向としては、1937年の名人戦を皮切りに7つのタイトル戦を含む10以上の棋戦が開催されています。


また、女性のプロ(女流棋士)も誕生し、1974年には最初の棋戦である女流名人位戦が開催され、6つのタイトル戦と1つの公式棋戦が行われています(2012年現在)。


この期間に定跡が整備され、とくにプロレベルの序盤は高度に精密化されました。


将棋自身も賭博の対象から純粋なマインドスポーツへと変化しています。


プロの発展とともに、将棋のアマチュア棋戦も整備され、日本全国からアマチュアの強豪選手が集まる大会が年間に数回開催されています。


また、コンピュータプログラムを利用した将棋の研究、特にコンピュータに着手を計算させる研究は、世界的に見るとチェスのそれの後を追うようにして、日本において1960年代にその萌芽があり21世紀にはプロとの現実的な対局が考慮されるに至りました。


2008年5月には、この年に開催された第18回世界コンピュータ将棋選手権での優勝・準優勝将棋ソフトがそれぞれトップクラスのアマチュア棋士に完勝。


更に、2013年以降は将棋電王戦においてプログラムが現役A級棋士を含む上位棋士を次々に破っており、現在のコンピュータ将棋の実力はプロでも上位に入るレベルに達しているとされています。


公式棋戦においてアマチュアトップや奨励会員とプロの実力下位者の対局が年間複数回指され、前者が後者を破ることも珍しくないことから、奨励会員・アマチュアトップも既にプロ下位者の実力に達しているともされています。


インターネット上で指せる将棋、いわゆるネット将棋も1990年代から発展してきており、将棋倶楽部24・ 81Dojoや、Twitterと連動したshogitterなどがあります。


また、2012年の主要タイトル戦の全勝負をインターネットでトッププロによる解説を交えて生配信するなど、幅広い層へのアピールやファンの獲得にも積極的に取り組んでいます。

 


『レジャー白書』によると、1年に1回以上将棋を指すいわゆる「将棋人口」は、1985年度の1680万人から、2005年度840万人、2013年670万人、2015年530万人と漸減傾向が続いているそうです。


将棋人口が減少した上記の期間に、将棋が一般メディアに取り上げられたことは何度かあります。


代表的なものでは、羽生善治の七冠達成(1996年)、将棋を題材としたNHK朝の連続テレビ小説『ふたりっ子』の放送(1996年)、中原誠と林葉直子の不倫報道(1998年)、瀬川晶司のプロ編入試験(2005年)、名人戦の移管問題(2006年)、羽生善治の最年少で1000勝(2007年)、将棋電王戦(2012年)、今泉健司のプロ編入試験(2014年)などです。


しかしいずれも「将棋ブーム」を生むには至らず、取り上げ方によってはファン離れを加速するものとなっているものもあります。


また、1996年頃からJava将棋やザ・グレート将棋など、盤駒を利用しなくともインターネットを通じて対局ができるインターネット将棋が普及。


現在は、1998年に運営を開始しアカウント延べ数20万人の将棋倶楽部24や、将棋ウォーズ、近代将棋道場、Yahoo!ゲームの将棋などインターネット対局が主流になり将棋センターは次々閉鎖されてきました。


2010年に英語が公用語の対局サイトである81Dojoが開設され、2017年現在で登録者数は推定約5万人を超えているそうです。

 

 

チェス、タイのマークルック、朝鮮のチャンギ、中国のシャンチーについて、ルールを理解し、すべて実際に指してみたという将棋の羽生善治は、将棋に近いのは、タイのマークルックであると述べています。


羽生は、日本の将棋と他の将棋類とのあいだの大きな相違点として持ち駒(とった駒の再利用)を挙げています。


このルールの相違により、他の将棋では序盤が激しく、駒数の減る終盤は静かな戦いになることが多いのに対し、いつまでも駒数の減らない将棋では終盤の攻防がきわめて激しいものとなるというゲームの質の決定的な違いを生んでいることを指摘しています。

 


将棋はかなり複雑なゲームではありますが、コンピューターゲームとしては1989年の時点でゲームボーイソフト化しています。


そのゲームではAIのレベルによってはゲームボーイの電池残量との戦いになるほどの長考が行われますが、初期のゲームボーイソフトのAIで既に弱すぎない出来となっていました。