今日は何の日?
11月27日はノーベル賞制定の日
1901年のこの日、ノーベル賞の第1回授賞式があり、5名が受賞しました。
ノーベル賞はスウェーデンの科学者アルフレッド・ノーベルの遺言により創設されました。
現在、授賞式は毎年ノーベルの命日の12月10日に、平和賞はオロスで、ほかの賞はストックホルムで開催されています。
ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞です。
物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物に贈られます。
経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、スウェーデン国立銀行の設立300周年祝賀の一環としてノーベルの死後70年後にあたる1968年に設立されたものであり、ノーベル財団は「ノーベル賞ではない」としていますが、一般にはノーベル賞の一部門として扱われることが多いようです。
ノーベル賞は、1895年に創設され、1901年に初めて授与式が行われました。
一方、ノーベル経済学賞は1968年に設立され、1969年に初めての授与が行われました。
賞設立の遺言を残したアルフレッド・ノーベルはスウェーデンの発明家・企業家であり、ダイナマイトをはじめとする様々な爆薬の開発・生産によって巨万の富を築きました。
人種差別や戦争も多かった時代に平和を愛したアルフレッド・ノーベル。
しかし、ノーベルが人を殺す道具となった『ダイナマイト』を発明したということで平和主義者ではないという批判が多かったようですが、ノーベルの思想は、簡単に人を殺す道具を発明することで、核の抑止力のような牽制により戦争がなくなるだろうというものであり、平和のためにダイナマイトを発明したといわれています。
しかし、ダイナマイトはノーベルが望むような使われ方にはなりませんでした。
1888年、ノーベルの兄のリュドビックがカンヌにて死去しますが、この時フランスのある新聞がアルフレッドが死去したと取り違え、「死の商人、死す」との見出しとともに報道しました。
自分の死亡記事を読む羽目になってしまったノーベルは酷く傷ついたと言われています。
平和を愛するはずが戦争の道具を生み出してしまったノーベルは、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになり、ノーベル賞の設立を考案したのでした。
1896年12月10日に63歳でノーベルは死去しますが、遺言は死の1年以上前の1895年11月27日にパリのスウェーデン人・ノルウェー人クラブにおいて署名されていました。
この遺言においてノーベルは、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と残しています。
彼がこの遺言のために残した金額は彼の総資産の94%、3100万スウェーデン・クローナに及びました。
周辺の人々はこの遺言に疑いを持ったため、1897年4月26日までこの遺言はノルウェー国会において承認されませんでした。
その後、彼の遺志を継ぐためにラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストがノーベル財団設立委員会を結成し、賞設立の準備を行いました。
賞の名前はノーベルを記念してノーベル賞とされました。
1897年4月には平和賞を授与するためのノルウェー・ノーベル委員会が設立され、6月7日にはカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、6月9日にはスウェーデン・アカデミーが、6月11日にはスウェーデン王立科学アカデミーが授与機関に選定されて選考体制は整いました。
賞の授与体制が整うと、1900年にノーベル財団の設立法令がスウェーデン国王オスカル2世(1905年まで兼ノルウェー国王)によって公布されました。
1905年にノルウェーとスウェーデンは同君連合を解消しましたが、両国分離後も授与機関は変更されませんでした。
ノーベル賞は物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞、経済学賞(正式にはアルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞)の部門から構成されています。
特に自然科学部門のノーベル物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の3部門における受賞は科学分野における世界最高の栄誉であると考えられています。
近年は生理学・医学賞と化学賞、物理学賞との境界が曖昧な分野が増えてきているそうです。
複数人による共同研究や、共同ではないが複数人による業績が受賞理由になる場合は、一度に3人まで同時受賞することができるそうです。
ただし、同時受賞者の立場は対等とは限らず、受賞者の貢献度に応じて賞金が分割されます。
なお、性質上「複数人による業績」が考えづらい文学賞は例外で、定数は一度に1人と定められています。
また、基本的に個人にのみ与えられる賞ですが、平和賞のみ団体の受賞が認められており、過去に国境なき医師団などが受賞しています。
選考は「物理学賞」、「化学賞」、「経済学賞」の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、「生理学・医学賞」はカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、「平和賞」はノルウェー・ノーベル委員会が、「文学賞」はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行います。
ノーベル賞の選考は秘密裏に行われ、その過程は受賞の50年後に公表されます。
よって「ノーベル賞の候補」というものは公的には存在しないことになりますが、「いつか受賞するだろう」と目される人物が各分野に存在するのも事実です。
トムソン・ロイターは旧トムソン時代から毎年独自にノーベル賞候補を選定発表しています(トムソン・ロイター引用栄誉賞)が、これは近年の論文の引用数などから算出したものです。
ただしノーベル賞はアカデミズムにおいて業績の評価がある程度定着してから決定されることが多いので、必ずしもこの基準で賞が決まるわけではありません。
最終選考は発表日当日に行われることが慣例になっている事がマスコミの事前予測が難しい理由です。
1973年までは、受賞者の候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもありました。
例としては、1931年の文学賞を受賞したエリク・アクセル・カールフェルト、1961年の平和賞を受賞したダグ・ハマーショルドが授賞決定発表時に故人でした。
1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが授賞の条件とされています。
2011年には、医学生理学賞に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していたことが後に判明し、問題となりました。
ただし、授賞決定発表の後に本人が死去した場合には、その授賞が取り消されることはありません。
スタインマンの場合はこの規定に準ずる扱いを受けることになり、特別に故人でありながらも正式な受賞者として認定されることが決まりました。
授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、「平和賞」はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行われ(古くはオスロ大学の講堂で行われていました)、受賞者には、賞金の小切手、賞状、メダルがそれぞれ贈られます。
ノーベルがスウェーデン生まれであったこともあり、授賞式はノーベル平和賞を除く5部門に関しては、スウェーデンのストックホルムで行われます。
しかし、ノーベル平和賞だけはノルウェーで授与式がなされる決まりになっています。
これは、平和を愛したノーベルがスウェーデンとノルウェー両国の和解と平和を祈念したからだと言われています。
受賞者へは賞状とメダルと賞金が与えられます。
受賞者に与えられる賞金は、ノーベルの遺言に基づき、彼の遺産をノーベル財団が運用して得た利益を原資としています。
ただし「経済学賞」は1968年に創設され1969年から授与されましたが、その原資はスウェーデン国立銀行の基金によります。
そのため、この賞は正式名称を「アルフレッド・ノーベルを記念した経済学におけるスウェーデン国立銀行賞」としており、厳密にはノーベル賞には含めない場合も多いそうです。
ノーベル賞の賞金は、過去幾度も変動してきました。
ノーベルは遺産を安全な有価証券にすることを指定しており、このため得られる利子額は長年にわたって低いものであり、賞金もそれに連動して設立当初より相対的に低い額にとどまっていました。
こうした状況は1946年にノーベル財団が免税となったことと、1950年代に株式への投資が解禁されたことによって改善され、1990年代には設立当初の賞金レベルを回復しました。
2001年から現在まで賞金額は1,000万スウェーデン・クローナ(約1億円)です。
しかしスウェーデンのノーベル財団は2012年6月11日の理事会で、過去10年間にわたって運用益が予想を下回ったことなどを理由として、2012年のノーベル賞受賞者に贈る賞金を2割少ない800万スウェーデン・クローナ(約8,900万円)とすることを決めました。
賞金の配分については、受賞者が2人(団体)の場合は全賞金を折半します。
受賞者が3人(団体)の場合は、「1人ずつが単独の研究による受賞」「3人の共同研究による受賞」であれば1/3ずつ分けられ、「1人が単独、2人が共同研究による受賞」であれば単独受賞の人物が1/2、共同受賞の2人が残りの1/2(1人あたり1/4)を得る形になります。
なお、日本においてはノーベル賞の賞金は所得税法第9条にあるように、「ノーベル基金からノーベル賞として交付される金品」は非課税と規定されています。
これは、1949年に湯川秀樹が日本人として初のノーベル賞を受賞した際に、賞金への課税について論争が起こったのを受けて改正されたものです。
ノーベル賞に数学部門が存在しない理由として、スウェーデンの著名な数学者ヨースタ・ミッタク=レフラーがノーベルの妻を奪ったことを根に持ったためだとする俗説がありますが、そもそもノーベルは生涯独身でした。
しかし、数学賞がない原因がミッタク=レフラーとの確執にあるという噂は、文献による証拠がないものの事実かもしれません。
実際、1890年にミッタク=レフラーがロシア帝国の数学者ソーニャ・コワレフスカヤへの資金的援助をノーベルに頼んだとき、ノーベルはこれを断っています。
またノーベルの1883年の遺書には自身の遺産の一部をミッタク=レフラーのいたストックホルム大学にも渡すように書いていましたが、1896年に最終版の遺書を書いたときにはこの記述を削除しました。
ストックホルム大学の学長を勤めたオットー・ペテルソンとスヴァンテ・アレニウスの推測によれば、ノーベルの遺書からこの記述が削除されたのは、ノーベルがミッタク=レフラーを嫌っていたためだということです。