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11月24日はオペラの日

 

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今日は何の日?

11月24日はオペラの日

 

1894年、宮内省式部職付属音楽学校(東京芸術大学)奏音堂で日本で初めてオペラが上演されました。


演目はグノー作曲の「ファウスト」第1幕で、オーストリア大使館職員が出演したと言います。
また、指揮者はドイツ海軍軍楽隊長フランツ・エッケルトでした。

 

 

オペラは、舞台上で衣装を着けた出演者が演技を行う点で演劇と共通していますが、台詞だけではなく、大半の部分(特に役柄の感情表現)が歌手による歌唱で進められることを特徴とします。


歌手は器楽合奏により伴奏されつつ歌い演じます。伴奏は、多くの場合交響楽団規模の編成に及びます。


初期ロマン派までのオペラでは、歌唱には二つの様式があります。


一つはレチタティーヴォ(朗唱)で、会話を表現するものであり、普通の朗読に近い抑揚で歌われます。


もう一つはソロ(独唱)で歌われるアリア(詠唱)や複数の歌手が歌う重唱(アンサンブル)あるいは大勢で歌う合唱で、通常の歌唱です。これらの様式はみな伴奏を伴います。


レチタティーヴォは、古典派の時代まではチェンバロのみで伴奏されるレチタティーヴォ・セッコと、管弦楽伴奏によるレチタティーヴォ・アッコンパニャートがあり、前者は会話的な抑揚で語るように歌います。


後者は直後のアリアや重唱の導入として置かれることが多いです。


ロマン派時代のオペラではレチタティーヴォ・セッコはほとんど見られなくなりました。


アリアは主に登場人物の感情を表現するもので、古典的なオペラではアリアを歌う間はドラマの進行が静止することもありますが、時代が下るにつれて、アリアでも登場人物の感情の推移を通じてドラマを進めるようになりました。


アリアはおおむね大規模なもので、主要な登場人物について割り当てられます。


より小規模なものをアリオーソ、カンツォネッタ、ロマンツァなどと、歌の性格によって呼ぶこともあります。


役柄どうしの対話は重唱で行われ、群集などが登場する場面では合唱も加わることがあります。


特に各幕の終曲(フィナーレ)では、ほとんどの登場人物による重唱や合唱で構成される場合があります。


これらの独唱・重唱・合唱について、古典的なオペラでは各々が独立して作曲されており、一連番号が付けられていたことから「ナンバーオペラ」と呼ばれ、各ナンバーの間は前述したレチタティーヴォによってつながれます。


各曲が独立しているため、上演時の都合によりナンバー単位で省略されたり、作品の作曲家または別な作曲家により、代替あるいは挿入用のアリアが加えられたりすることもありました。


しかしロマン派の半ば以降にはナンバーによる分割が廃され、各幕を通して作曲されるようになりました(上演の際に慣習的なカットを行うことがあります)。

 


また、アリアとレチタティーヴォも明確には区別されなくなっていきました。


ジングシュピール、オペラ・コミック、オペレッタ、サルスエラなどの様式では、レチタティーヴォ・セッコでなく台詞を用いて劇が進められます。


歌手、および歌手の演ずる役柄はそれぞれの音高(声域)で分類されます。


男性歌手(男声)は声域が低い順にバス、バスバリトン、バリトン、テノール、カウンターテノールに、女性歌手(女声)は声域が低い順にアルトまたはコントラルト、メゾソプラノ、ソプラノに分類されます。


また、歌手の声の質も役柄との関係が深く、声質によって歌えたり歌えなかったりする役柄が多いです。


たとえば、ベッリーニの『ノルマ』の題名役、ヴァーグナーの『ニーベルングの指環』のヴォータンやブリュンヒルデ、ヴェルディの『オテロ』や『ファルスタッフ』の題名役の良い歌手を見いだすのはいつでも難しいとされているそうです。


オペラは他の多くの芸術形態から成立しています。基本は音楽ですが、歌と台詞が付いて演じられることから演劇の要素をも持ちます。


また、上演する上で重要な要素と考えられる視覚的な舞台効果を得るため、絵画の要素も用いられています。


こうした理由で、19世紀を代表するドイツのオペラ作家、リヒャルト・ヴァーグナーは、このジャンルを「総合芸術」(Gesamtkunstwerk)と呼びました。

 

 
日本では、明治時代に入り、1894年11月24日に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)奏楽堂で、オーストリア=ハンガリー大使館職員により『ファウスト』第1幕が上演され、これが現在日本で行われているオペラの原点となりました。


さらに1903年、東京音楽学校・東京帝国大学の教師らの指導の下に、グルックの『オルフェウス(オルフェオとエウリディーチェ)』が上演されました。


そして1911年に創設された帝国劇場に歌劇部(のちに洋劇部)が併設され、ここでオペラの小規模な上演が行われるようになりました。


注目すべきことに、この時代すでに日本人による創作オペラの作曲と上演が行われていました。


この時代の日本人によるオペラには、東儀鉄笛の『常闇』(1906年、台本:坪内逍遥)や、小松耕輔の『羽衣』(1906年、台本:小林愛雄)等があります。


『常闇』の台本を書いた坪内逍遥は、1904年に『新楽劇論』を著し、その中でヴァーグナーに対抗して、日本の古典演劇や舞踊を取り入れた日本独自の「国民楽劇」の樹立を主張していました。


帝劇オペラは、「帝国劇場」という名前ではありながら国営ではなく株式会社であったため、やがて財政難から上演の継続が困難となり、1916年に帝劇洋劇部は解散となります。


この時期に来日して洋劇部の指揮者を務めていたローシー(ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー)は自腹を切ってオペレッタ劇場「ローヤル館」を開設・運営するも1年と持たず、ローシーは日本を去りました。


その後、大正期から当時随一の歓楽街であった東京・浅草で、浅草オペラとして知られる公演が行われるようになり、様々なオペラ劇団による公演が行われてオペラの大衆化に貢献しました。


この浅草オペラも1923年の関東大震災による劇場の焼失とともに衰退し、1925年には消滅しています。


著名な喜劇人の榎本健一(エノケン)は浅草オペラにおいて活躍しており、彼のその後の音楽性にあふれた軽妙かつ活動的な芸風は、浅草オペラの経験によるものと評されています。


1932年にヨーロッパで活躍していたテノール歌手の藤原義江が帰国すると、藤原歌劇団の前身となる「東京オペラ・カムパニー」を設立し、『ラ・ボエーム』、『リゴレット』、『トスカ』などの本格的公演を行います。


1939年には「藤原歌劇団」となり、1942年には『ローエングリン』を上演しています。


藤原歌劇団はその後現在に至るまで盛んな活動を続けているそうです。


また、1940年には山田耕筰(1886年 - 1965年)の代表作『黒船』が初演されています。


一方、永井荷風はフランス留学時にオペラに親炙したこともあり、オペラを日本に積極的に紹介していましたが、その成果として1939年、菅原明朗作曲によるオペラ『葛飾情話』を創作しています。


第二次世界大戦後の1952年には、東京音楽学校の出身者たちによって二期会が設立され、以後、藤原歌劇団と共に戦後の日本オペラの中心的存在として、欧米の歌劇場に肩を並べるような本格的なオペラ上演の活動を展開していくことになります。


また、二期会の設立と同じ1952年に、團伊玖磨(1924年 - 2001年)の『夕鶴』が初演され、以後日本の人気オペラとなり上演が重ねられました。


その後、東京室内歌劇場、東京オペラ・プロデュースといったその他のオペラ団体も生まれましたが、上記の二期会、藤原歌劇団を含め専用の劇場を持っている団体はないそうです。


1997年には日本で最初のオペラ専用の歌劇場である新国立劇場が誕生しましたが、専属のオーケストラや歌手、音楽監督は存在せず、専属の合唱団があるのみでした。


2007年シーズンより若杉弘が初代音楽監督に就任し、2008年2月22日の『黒船』プレミエで音楽監督としてデビューしました。


地方を含めた多くの都市には、地元のアマチュアの合唱団とプロのソリストやオーケストラが共演する「市民オペラ」と呼ばれるものが存在し、特に地方では地元の民話などを題材にした新作オペラが上演されることもあります。


しかし、各主要都市(ドイツ圏では人口10万以下の小都市ですら)が歌劇場を持ち、それぞれに専属のプロの歌手、オーケストラ、合唱団、音楽監督が存在するヨーロッパの状況とは、まだまだ大きな隔たりがあると言わざるを得ないそうです。


もっとも、日本にはヨーロッパほど自国団体のオペラ上演に対する大きな需要があるわけではない、という面も無視できません。


オペラの盛況は発祥の地であるヨーロッパに特有の現象ととらえることもできます。


日本語によるオペラの発声法は確立されていない、とする見解もあるそうです。


日本語は母音が多いため重唱すると誰が何を言っているのか聞き取りにくく、様々な時代の漢語を取り込んだので同音異義語が多く、また、欧米語のオペラでは1音符に1単語をあてられる場合もあるのに比べ、「ん」以外は1文字が1音節となる日本語では1音符に1文字をあてる場合が多く、歌える言葉が少なくなるという問題があるそうです。


外国作品を日本人公演でも字幕付で原語上演するのは1980年代になって広まり、それまでの日本語公演に取って代わったともいわれています。


以前は全てのオペラがドイツ語で上演されていたヴィーン国立歌劇場でカラヤンが音楽監督に就任してから原語上演が導入され、その後、上演国の言語ではなく原語での上演が欧州全体に広がって以降、オペラの原語上演は世界的な傾向でもあります。


また近年では、「『日本語の正しい発声』なるものを仮構して実践する、というやり方ではなく、そうかといって、『正しいオペラの発声』なるものを無視した『悪い声』というわけでもなく」「日本語が明瞭で生き生きしていた」と評される日本語公演の例もあり、「日本語オペラの発声法」のような独特の発声法を「確立する」という発想とは異なる視点も生まれているそうです。


2002年、小澤征爾がウィーン国立歌劇場の音楽監督になりましたが、歌詞にウィーン訛り、イタリア語訛りの出てくるリヒャルト・シュトラウスのばらの騎士で、そうした訛りが聞き取れず、また別の機会に「この年になってこんなに勉強できるのは嬉しい」と語ったそうですが、ウィーン人にとっては音楽監督とは彼から学び引っ張っていってもらいたい存在であるところに、日本語を母語とする現在の日本人の限界がある、と野村三郎は述べているそうです。


2016年2月、小沢征爾がサイトウ・キネン・オーケストラを指揮したラヴェルの『こどもと魔法』を収めたアルバム(2013年のサイトウ・キネン・フェスティバル松本のライヴ録音)がグラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞しました。