今日は何の日?
10月25日は民間航空記念日
1951年、戦後最初の国内民間航空会社である日本航空が、東京~大阪~福岡間の運行を開始したのがこの日です。
一番機の「もく星号」は、ノースウエスト航空へ委託運行したためクルーはすべて外国人で乗客は39名でした。
第二次世界大戦が1945年9月に日本の降伏で終結した後、日本の占領に当たった連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) によって、直ちに官民を問わず全ての日本国籍の航空機の運航が停止されました。
やがて、1950年6月にGHQにより日本の航空会社による運航禁止期間が解除されることとなり、1951年1月に日本航空創立準備事務所が開設されました。
同時期に他にも4社が国内航空運送事業免許の申請の意向を見せたために、行政指導により最終的に日本航空に一本化され、1951年3月に国内航空運送事業の免許を申請しました。
その2か月後に営業免許を取得したことを受けて、1951年8月に「日本航空株式会社」として設立されました。
日本政府主導による半官半民の体制で、設立当初の本社は現在の銀座日航ホテルがある場所に置かれました。
当初はわずか39名であった社員はその後徐々に増えていきますが、大半は復員軍人や学徒出陣兵でした。
さらに英語が堪能な日系二世を多数採用して「外人部隊」とする、奇妙な集団だったそうです。
その後、定期運航開始に向けて、まず1951年8月27日から29日にかけてフィリピン航空からチャーターしたダグラス DC-3型機(機体記号PI-C7、「金星」号と愛称が付けられた)で、運航関係者や報道関係者を対象にした試験招待飛行を実施した他、1951年9月には羽田空港や大阪、福岡、札幌などの当初の就航予定地に支所や出張所を開設しました。
1951年10月25日には、戦後初の国内民間航空定期便としてアメリカのノースウエスト航空から乗員とともにリースしたマーチン2-0-2型機「もく星号」で羽田空港-伊丹空港-板付空港間の定期旅客運航を開始しました。
その後1951年11月1日より正規ダイヤの運航に移り、羽田空港-千歳空港間の運航も開始するとともに、より大型のダグラス DC-4B型機もノースウエスト航空からリースしました。
当初は国内線の運航のみで、しかも当時日本に乗り入れていた旧連合国陣営の外国航空会社5社による共同設立会社であるJDAC (Japan Domestic Airline Company)との運航委託を条件とした営業免許だったこともあり、JDACの1社であるノースウエスト航空の機材と運航乗務員による委託運航という体制でした。
しかし翌1952年4月に、ノースウエスト航空の乗務員が運航していた「もく星号」が伊豆大島で墜落事故を起こしたこともあり、1952年10月にノースウエスト航空との運航委託契約が切れるのを待って、新たに購入したダグラスDC-4B型機「高千穂号」によって自主運航を開始しました。
また、これに先立つ1952年6月には、国内ローカル線用にイギリス製の近距離向けプロペラ機のデ・ハビランド製DH.114 ヘロン型機を発注した他、1952年7月には、本格的な国際線運航に向けて、イギリス製の最新鋭ジェット旅客機であるDH.106 コメット型機の最新型であるコメットIIを2機発注しました。
さらに1952年9月にはダグラスDC-4B型機に代わる国際線主力機として、DC-4Bを大型化しエンジンも改良、更に客室を与圧化し快適性を増したダグラスDC-6B型機も相次いで発注しました。
しかしDH.114 ヘロンは翌1953年8月に公布、施行された日本航空株式会社法(昭和28年法律第154号)の規定により、日本航空の運航路線が国際線および国内の幹線のみに限定されることとなったため、自社で運航乗務員の訓練用に使用した後、1954年2月から8月にかけて日本ヘリコプター(現在の全日空)に賃貸し、その後同社に売却することになりました。
また、先に発注したコメットIIも、その後設計ミスにより空中分解する連続事故を起こし運航が停止となったため、その後多くの航空会社と同様に発注をキャンセルしました。
なお、「日本航空株式会社法」の公布に基づき、1953年10月1日には特殊会社である新しい「日本航空株式会社」が誕生し、それまでの日本航空株式会社は同日付で新会社に一切の権利義務を承継して解散しました。
現在の日本航空株式会社はこのときの新会社である日本航空株式会社の法人格を引き継いでいるため、同日が設立年月日となっています。