今日は何の日?
12月3日はプレイステーションの日
「プレイステーション」の誕生日(1994年12月3日発売)を記念して制定されました。
PlayStationは、1990年代中期に「次世代機」と呼ばれた家庭用ゲーム機の一つです。
発売は1994年12月3日で、発売元はソニー・コンピュータエンタテインメント(現: ソニー・インタラクティブエンタテインメント)です。
開発を主導した久夛良木健(くたらぎ けん)の独特の技術論や、丸山茂雄らによる従来のゲーム機ビジネスとは異なるレコードビジネス仕込みの戦略で、セガ・エンタープライゼス(現・セガゲームス)のセガサターンや、任天堂のNINTENDO64と次世代機戦争と呼ばれた市場競争に勝利し、ファミリーコンピュータのヒット以来任天堂が独占していた市場でトップシェアとなりました。
プレイステーションはCPUにRISC方式の32ビットプロセッサMIPS R3000カスタムを
採用し、3DCGの描画を支えるベクトル演算専用カスタムLSI(GPU)を別途大量に搭載しています。
非常に高価なグラフィックスワークステーション並みの高性能を実現しており、特に3Dグラフィックスの処理性能に優れ、比較的簡単にプログラミングできることを特徴としています。
ハードウェアの性能としては3Dポリゴン描画に特化したアーキテクチャが最大の特徴であるプレイステーションですが、旧来のゲーム機では常識であったラインバッファ方式のスプライトやBG機能は搭載していないため、2Dの表現は苦手です。
JPEGデコーダのMDECを内蔵しており、この機能を活用して当時の水準としては高画質なMotion JPEGによる動画の再生が可能であった点も特筆されます。
『ファイナルファンタジーVII』をはじめとするこの機能を活用したコンテンツの登場により、プリレンダリングされた3DCGムービーとネイティブの3Dゲーム操作シーンを連結して多用することで場面と時間を繋ぎ物語性を補完する表現手法が確立されました。
またゲーム導入時のデモムービーやエンディングムービーなど、ゲームをプレイするための動機付けとしても広く活用されるようになりました。
プレイステーションは発売時の希望小売価格は39,800円でしたが、39,800円から29,800円、24,800円、19,800円、18,000円と段階的に値下げをしていき、最終的に15,000円まで値が下がりました。
この値下げは、開発者の久夛良木健の戦略であり、後に技術の進歩により安価な値段で代替が効くパーツが生まれることを前提に、代替される可能性のある部分を最初からシステマティックにまとめて設計していたことにより可能になりました。
実際にプレイステーションはバージョンを重ねることに部品点数が削減されています。
ただし、親会社であるソニーは家電業界的な発想から値下げに関しては大反対であったといいます。
日本でのハードウェアの生産出荷台数は約1740万台、PS oneは約419万台であり、合計は2159万台、全世界では1億249万台です(2005年3月31日現在)。
2004年5月18日に全世界累計での生産出荷台数の累計が1億台を突破しました。
据え置き型としては初めて累計出荷台数が1億台を突破した家庭用ゲーム機です。
日本でのソフトウェアの累計生産出荷本数は約2億8600万本であり、全世界では9億6200万本です(2006年12月31日現在)。
新作タイトルはPlayStation 2発売以降も登場し、日本では2004年まで発売され続けました。
公式サイトのソフトウェア製品情報に登録された日本国内のタイトルは2005年11月現在4324タイトルです(廉価版、初回限定版などによる重複も含まれます)。
ソフトウェア媒体として採用したCD-ROMは従来のROMカートリッジと比較してデータへのアクセス速度が劣りますが(ローディング時間が生ずる)、大容量、低価格、量産時間の短縮といった利点があり、コンピュータゲームの表現方法から流通にまで幅広く影響を与えました。
当時のCD-ROM機は大容量メディアという反面、それゆえにローディングに非常に時間がかかるのが難点とされていましたが、PlayStationはローディング時に読み込むデータは3D映像自体ではなくデータコードであり、それを本体内で処理・展開させて3D映像を作り出すという構造にすることで、当時としては高速なローディングを実現していました。
3Dポリゴンの描写も演算をソフトウェアで処理させることが多かった当時のパソコンや他のゲーム機と比較して格段に高い性能を引き出すことが出来ました。
なお、一般的なCD-ROMメディアとは異なり記録面が黒いことが特徴です(光に透かすとわかりますが厳密には濃い青色)。
開発時は通常のCD-ROMで、CDマットを付ける事が検討されていましたが、久夛良木健のコストカット路線により、CDマットをやめ、記録面の色を変えるという方向に落ち付きました。
非正規ソフトの対応については、CD-ROMのコピープロテクトを解除するための「MODチップ」と呼ばれるICチップが世界規模で出回り、それに対してソニー・コンピュータエンタテインメントは「レッドハンドプロテクト」で対抗しました。
セーブデータの保存形式がバッテリーバックアップではなくなり、データ保存先の本体内部、もしくはカセットのバッテリーがなくなると同時にセーブデータが消失してしまう事がなくなりました。
バッテリーがなくなった時にセーブデータが消える事を防ぐ為に別のメディアに移行させて電池交換を行う必要もなくなりました。
セーブ、ロードの時には Now Loading の画面が開いてソフトとメモリーカードの間で処理を行います。
仕事で使うコンピュータを「ワークステーション」と呼ぶことに対して、遊びで使うコンピュータという意味で「プレイステーション」に決めたというのが名前の由来とされています。
ユーザー間では「プレステ」と略されることが多いですが、CMや自社製品内での記載では一貫して「PS(ピーエス)」と略されています。
『週刊ファミ通』の記事によると、盛田昭夫がプレステの「ステ」が「捨て」に通じることから避けさせたといいます。
「プレステと呼ぶなー」という新聞広告を出したこともあるほどです。
本来、プレイステーションはスーパーファミコン互換のCD-ROMゲーム機で使われる予定だった名称であり、これを流用したものです。
頓挫した商品と同一名は縁起が悪いという意見もありましたが、既に全世界ベースで商標権を登録しており、新しい商標にするには調べるだけで半年かかるためそのまま同一のプレイステーションの名称が採用されました。
スーパーファミコン互換のCD-ROMの開発中止や任天堂との確執については長くなってしまいますので、割愛させていただきます。
プレイステーションは同時期に発売された他社のゲーム機と販売競争が繰り広げられました。
特にセガサターンとの販売台数争い・値下げ競争はマスメディアによって「次世代ゲーム機戦争」などと呼ばれ、このことはプレイステーションの宣伝にも繋がりました。
この次世代ゲーム機戦争ではCD-ROMがメディアとして採用されており、松下電器産業と三洋電機が3DOで、日立がHiサターン、ビクターがVサターンというセガサターン互換マシンで参入して、マルチメディアマシンを標榜していましたが、プレイステーションはあくまでゲーム専用のゲームマシンであることをアピールしました。
スーパーファミコン時代に1万円近くまで高騰していたゲームソフト価格に関しても、CD-ROM採用によるソフト生産のコストダウン、ロイヤリティの削減、前述の流通改革などを行い、5800円からと低価格化させ、ソフト購入の敷居を大幅に下げるなどしました。
プレイステーション発売時には「全てのゲームは、ここに集まる。」のキャッチフレーズを使っていましたが、開発時は任天堂の黄金時代であり、当時印象の悪かったCD-ROM機というハード、3Dという未知のソフト開発に取り組まなければならないということ、さらにソニーがMSXパソコンで一度はゲームビジネスから撤退した過去があったこともあり、ソフト会社はプレステ参入に難色を示していました。
しかし、1993年末、セガがアーケードゲーム『バーチャファイター』を発表し、3Dゲームの可能性を体現した直後から難色を示していたソフト会社が興味を持つようになったといいます。
幅広くサードパーティーを招き入れようと、150万円という価格で開発機材を提供したことで、新興ゲームメーカーが多数参入しました。
また、サードパーティーのプログラマの負担を軽減するため、SCEでプログラムのライブラリを構築して開発者を支援を試みました。
当初このプログラムのライブラリは自分たちでプログラムを組みたがっていた技術者からは不評でしたが、後に非常に便利なものであると認識されるようになり、続々とサードパーティーが参入するようになりました。1994年夏には契約したサードパーティは200社を越えていました。
立ち上げ期においては、セガとはアーケードゲーム市場でライバル関係にあり、任天堂とは関係が悪化してゲーム機の自社開発を模索していたナムコがSCEと提携してプレイステーション陣営につき、ローンチタイトルとして『リッジレーサー』を発売し普及を牽引するキラーソフトとなりました。
その後も初期にはナムコの『鉄拳』やタカラの『闘神伝』といった格闘ゲームソフトでハードの売り上げを伸ばしました。
更に1996年にナムコからガンコンを使ったタイムクライシスが発表されました。
そして、これまで任天堂マシンで発売されていた日本を代表するRPGシリーズであるスクウェアの『ファイナルファンタジー』シリーズの参入が1996年2月に発表されてプレイステーションの優勢が決定づけられ、同年3月に発売された『鉄拳2』やカプコンの『バイオハザード』はリピートによるロングセラーになりました。
1996年年末商戦でプレイステーションは独り勝ちしました。
翌1997年1月には 『ファイナルファンタジーVII』が発売されて大ヒットし、エニックスの『ドラゴンクエスト』シリーズがプレイステーションに参入することが発表され、プレイステーションの次世代機戦争の勝利が確実なものになりました。
これまでにもPCエンジンやメガCDなどCD-ROMを採用したゲーム機がありましたが、それらのマシン以上にCD-ROMの低コストの利点を活用して、体験版の無料配布や本体への添付、雑誌への付録などで新作ソフトに触れる機会を増やし、価格面では「PlayStation the Best」などの廉価版の再発売ソフト、新作ソフトで1,980円のパンドラMAXシリーズや1,500円のSIMPLE1500、950円のスーパープライスシリーズが誕生しました。
中でもSIMPLE1500シリーズは104タイトルを数える人気シリーズとなり、その中からは150万本のロングセラーとなった『THE 麻雀』も生まれました。
ゲームの3D化により、従来のゲームよりリアルな表現が可能になり、子供のおもちゃというイメージを持ち合わせたうえで、ゲームから離れていた青年・中年層の支持を得ることにも成功しました。
テレビCMでは、冒頭や最後にプレイステーションのCMであることを示すサウンドロゴを採用している他、ユニークなことで定評があった「いくぜ、100万台。」「よい子とよいおとなの。」などのキャッチフレーズを活用、CM内ではマスコットとして「プレステマン」、「クラッシュ・バンディクー」、「パラッパラッパー」、「ピポサル」といったキャラクターも使用していました。
また1997年のクリスマス商戦期には、多数のゲームソフトの体験版を収録した2種類の体験版を一部の店舗にて100万枚無料配布するなど派手な広告展開を行いました。
プレイステーションの絶頂期は1996年から1999年であり、特に『FFVII』を発売した1997年は、本体の日本国内出荷台数が1月時点で500万台を突破するも年末までには更に500万台を上乗せして1000万台突破を達成、ソフトでもスクウェアのゲームをはじめミリオンセラーが5本と続発し、SCEのソフトではロングヒットにより最終的にダブルミリオンを達成するソフトも出ました(『グランツーリスモ』、『みんなのGOLF』)。
流通面においては、ゲーム参入時に任天堂と卸会社の蜜月関係による初心会流通を研究し、音楽CDの流通販売で多大なノウハウを有していたEPIC・ソニーレコード仕込みの流通改革を実施しました。
従来のゲーム機のソフト媒体であるマスクROMはリピート生産に時間がかかるため、問屋は初回販売で品切れによって販売チャンスを逃すまいと見込み発注を行っていました。
この見込み発注が、見込み違いにより売れなかったソフトが過剰在庫となり、投げ売りされたり、いわゆる抱き合わせ商法で人気ソフトとともに販売される原因となっていました。
このことに着目し、SCEは自らが直接小売店と取引をする問屋機能を担い、従来の投機的な見込み発注ではなく、適切な初回生産と小まめで迅速なリピート生産による安定的なソフトの供給路線を進めました。
CD-ROMの生産は設立母体であるソニー・ミュージックエンタテインメントのCD工場(現・ソニーDADCジャパン)で行い、追加生産が必要な場合でも最長で6日で小売店にソフトが届く体制を築きました。
利益が製作者に還元されない中古市場対策として、発売から一定期間が経過したソフトについて廉価版をリリースしました。
これらの流通改革は、リピート生産が容易で生産が低コストであり、CD-ROMのメリットを活かしたものでした。
流通改革により、既存のゲーム流通、特に任天堂の初心会流通は壊滅的なダメージを受け、多くの問屋が廃業に追い込まれ、初心会自体も1997年に解散しています。
SCEの主張する初回生産枚数とサードパーティーの主張との隔たりも発生し、そのことが原因でプレイステーションで発売予定のソフトが他社ハードへ移籍するエネミー・ゼロ事件が起きました。
このように自主的な生産本数の決定を望むサードパーティーが現れて、1997年夏にSCEの完全買い上げは終了し、コナミなど有力メーカーは独自の流通を開始しました。
SCEは同じソフトでもゲームショップによって価格が2割も3割も異なるという従来のゲーム流通も問題視し、再販売価格維持制度で定価販売が認められている音楽ソフトのように、どこの店でも同じ価格で購入できるように事実上の定価販売を目指しました。
しかし、 公正取引委員会から1998年1月20日に「プレイステーション用ソフトウェアの販売について、小売業者に対し希望小売価格で販売するように、圧力を加えた」として独占禁止法に基づく排除勧告を受けました。
SCEは一貫して容疑を否認していましたが、2001年8月1日、SCEが圧力を加えていた事実を認定する審決が下され、2001年11月20日に排除勧告を受諾しました。
公取委の摘発により定価販売は不可能となり、目指していたリピートビジネスも発売タイトルが膨大になったことできめ細かな対応が不可能となって徐々に初動型のビジネスとなって崩れ去り、また発注の失敗による不良在庫で値引きやワゴンセールは相変わらず発生するなど、ゲーム機として成功を収めたプレイステーションですが、流通改革については必ずしもうまくいきませんでした。