今日は何の日?
6月26日は雷記念日~!
930年のこの日、平安京の清涼殿に落雷があり、大納言の藤原清貴が亡くなりました。
この清涼殿落雷事件は、政治的な策略によって大宰府に左遷された菅原道真のたたりであると信じられたため道真の学者としての名誉を回復し、学問の天神様として祭られるようになりました。
菅原道真は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇りました。
しかし、左大臣・藤原時平に陥れられ、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で失意のうちに没しました。
死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となりました。
現在は学問の神として親しまれています。
清涼殿落雷事件
930年、平安京周辺は干害に見舞われていて、6月26日に雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれる事になりました。
ところが、午後1時頃から愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それからおよそ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃しました。
この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となりました。
清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されましたが、希世も程なく死亡しました。
落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包が髪を、同じく紀蔭連が腹を、安曇宗仁が膝を焼かれて死亡、更に警備の近衛も2名死亡しました。
清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは大混乱に陥り、醍醐天皇も急遽清涼殿から常寧殿に避難しました。
しかし、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3ヶ月後に崩御する事になってしまいます。
天皇の居所に落雷したということも衝撃的でしたが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まりました。
また、道真の怨霊が雷神となり雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなったそうです。