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2月11日は仁丹の日

 

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今日は何の日?

2月11日は仁丹の日

 

「仁丹」を製造販売している森下仁丹が、1893年の同社の創業日と1905年の「仁丹」の発売日を記念して制定しました。

 

 

仁丹(じんたん)は、森下仁丹から発売されている口中清涼剤です。医薬部外品。

 

桂皮や薄荷脳など、16種類の生薬を配合して丸め、銀箔(発売当初から戦前まではベンガラ)でコーティングした丸薬です。


独特の匂いをもつ。そのためもあって、携帯する際には専用の携帯ケースを使います。
銀でコーティングをするのは銀の殺菌効果で保存性を高めるためです。

 

パッケージに描かれた登録商標である大礼服姿の通称「将軍マーク」は有名です。


仁丹の宣伝普及に伴い、大礼服着用の際の二角帽を軍人が俗称として「仁丹帽」と呼ぶようになったほどです(ただし実際には、軍人ではなく外交官をイメージしてデザインされたものです。)。

 

パッケージには「JINTAN」というローマ字のロゴもありますが、海外輸出用では、インドネシア向け「DJINTAN」、中南米向け「DZINTAN」という風に、現地で「ジンタン」と読めるようつづりを使い分けました。

 

年配者を中心に今でも口臭予防の嗜好品であり、当該品を常備し嗜む人は多いものの、若い年代を中心に仁丹そのものの存在を知らないといった風潮があります。

 

派生品として、グリーン仁丹、梅仁丹、レモン仁丹といった商品が発売されました。

 

「仁丹」の名前の由来は、儒教の教えの中心で最高の徳とされる「仁」と良薬や丸薬の意である「丹」を合わせたもので、創業者である森下博が命名、1900年に商標登録しました。

 

 

仁丹は、1905年に「懐中薬」として発売されました。発売当初の仁丹は赤色で大粒の物でしたが、年を追うごとに改良が重ねられ、1929年に現在の形となる銀粒仁丹が発売されました。

 

医療水準が十分でなかった当時の日本において、創業者の森下博が「病気は予防すべきものである」という考えに基づき、毎日いつでも服用できるようにと、台湾出兵に同行した際、現地の住民が服用していた丸薬をヒントに開発したものです。


発売当時は、謳い文句として「完全なる懐中薬・最良なる毒消し(もしくは最良なる口中香剤)」という二文がついていました(なお、ここでいう「毒」とはコレラや梅毒のことを指しており、特にコレラは明治・大正期においては致死率の非常に高い病気でした。

 

やがて大正期に入ると、当時猛威を振るっていたコレラに対しての予防を前面に打ち出し、謳い文句が「消化と毒けし」に変わります。


当時はコレラに対する治療法が徹底されていなかったこともあり、全国紙に一頁広告を幾度も掲載して「消化を良くし、胃腸を健やかにすべし」との考えを遍く広め定着させたことで、仁丹の売り上げはさらに飛躍することになります。


なお昭和に入ると一頁広告の隅に「昭和の常識」と称した豆知識コーナーが添えられるようになりました。

 

 

明治・大正期に大阪の梅田・難波や東京の上野・浅草に広告塔(浅草のものは、凌雲閣を模したもので「仁丹塔」と呼ばれ親しまれました)を設置するなど、広告展開を幅広く行った商品としても知られます。


当時は非常に珍しい存在であった飛行機で空からビラを撒いたり、上野の広告塔では掲げられた仁丹の二文字に電球を配して夜でもわかるようにするなど、パブリシティを重視し、その広告宣伝手法は当時から話題を呼んでいました。


また京都市内の街中に戦前に貼られた広告は町名板を兼ねていたものであり、現在でも戦火を免れて至るところに残っています。2010年になり、この看板を再び増やす計画が立てられています。


他にもJR西日本沿線の滋賀県内や広島県内の各地では、1960年代から1970年代頃までに貼られたと思しき仁丹のホーロー看板が貼り巡らされた建物も存在します。