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11月2日はバス・キッチンの日(家庭文化の日)

 

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今日は何の日?

11月2日はバス・キッチンの日(家庭文化の日)

 

キッチン・バス工業会が制定しました。
11月3日の「文化の日」の前日に家庭文化のあり方を考える日にと制定。
また、Kitchen-BathのK・Bがアルファベットの11番目・2番目でもあることにも由来しています。

 

 

日本語の風呂の語源は、2説あります。
ひとつは、もともと「窟」(いわや)や「岩室」(いわむろ)の意味を持つ室(むろ)が転じたという説。
もうひとつは、抹茶を点てる際に使う釜の「風炉」から来たという説です。


英語の"bath"は、イギリスにある温泉場の街の名前、バース(Bath)が語源という俗説がありますが、日本の「温泉町」という地名と同様、温泉があるから"Bath"と呼ばれるようになったそうです。

 

英語"bath"にあたる「温浴」もしくは「温めること」を意味する名詞はゲルマン古語に既にあり、さらに遡れば遠く印欧祖語に由来すると考えられています。

 

 

もともと日本では神道の風習で、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる禊(みそぎ)の慣習が古くより行われていたと考えられています。


仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られました。

 

もともとは僧尼のための施設でしたが、仏教においては病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、『仏説温室洗浴衆僧経』と呼ばれる経典も存在し、施浴によって一般民衆への開放も進んだといわれています。

 

特に光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名です。

 

当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式でした。

 

風呂は元来、蒸し風呂を指す言葉と考えられており、現在の浴槽に身体を浸からせるような構造物は、湯屋・湯殿などといって区別されていました。


平安時代になると寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設を上級の公家の屋敷内に取り込む様式が現れます。

 

『枕草子』などにも、蒸し風呂の様子が記述されています。

 

次第に宗教的意味が薄れ、衛生面や遊興面での色彩が強くなったと考えられています。


鎌倉時代には東大寺復興に尽力した重源による施浴にて鉄湯船が見られます。

 

これは南都焼討で被害を受けた大仏殿再建のため巨木を求めた重源が1186年頃に周防国に至り、木材伐り出しに従事する人夫の為に行われた湯施行です。

 

重源が開山した阿弥陀寺の旧鉄湯舟残欠は渡宋経験のある重源が南宋で知り得たものを国内で再現したもので、 キッチン・バス工業会ではこれを長州風呂の元祖と紹介しています。

 

現存する鉄湯船は1197年に大仏鋳造に従事していた河内鋳物師の草部是助らにより東大寺に奉納された物、1290年に同じく河内鋳物師の山河貞清による物が成相寺と智恩寺にみられます。


浴槽にお湯を張り、そこに体を浸けるというスタイルがいつ頃発生したかは不明です。

古くから桶に水を入れて体を洗う行水というスタイルと、蒸し風呂が融合してできたと考えられています。

 

この入浴方法が一般化したのは江戸時代に入ってからと考えられています。

 

戸棚風呂と呼ばれる下半身のみを浴槽に浸からせる風呂が登場。慶長年間の終わり頃に、すえ風呂、または水(すい)風呂と呼ばれる全身を浴槽に浸からせる風呂が登場しました。

 

 

 

台所はキッチン(kitchen)、厨房(ちゅうぼう)、調理場(ちょうりば)、勝手場(かってば)、(お)勝手(かって)などともいわれます。

 

台所やキッチン、勝手場という呼び方は、主に一般住宅の調理設備を指し、厨房や調理場という呼び方は、飲食店や給食センターなどの大規模な業務用の調理設備を指すことが多いです。


日本語の「台所」の語源は、平安時代に貴族たちが食生活を行っていた部屋の総称である台盤所(配膳用の皿を載せる台が置かれた場所)に由来し、中世以降「台所」と呼ばれるようになりました。

 

また、英語のキッチンの語源は、古来語のcycene(クチーナ)、ラテン語のco-quina(火を使うところ)に由来します。


レストランなどの営業目的である業務用の台所(厨房、調理場)は、作業人数に合わせた適切な広さや設備の設定が必要です。

 

設計には給水設備、排水設備、ガス設備、電気設備などが関係し、幅広い専門知識が求められます(厨房設備施工技能士)。

 

衛生上では、保健所からの指導で、二槽式のシンクや手洗い器、消毒薬の設置を指導されたり、定期的な検査が必要とされたりします。


なお、調理場は地上の建物内に限らず、外洋に出る大型船舶内にも古くから備えられています。

 

一例として、長崎県鷹島沖の海底から発見された元寇時(13世紀末)の軍船の周囲からは南宋製のレンガと共にブタの骨が見つかっており、考古学者は船内で火を用いた調理が行なわれていたと考えています。

 

長期間上陸しないことを想定し、船内調理場を備えることは現代でも豪華客船に見られます。


気温が低く、凍結によって給排水がままならない地域、食物の腐敗や細菌の影響が切実ではない北の地域では、洗うという概念が南の地域とは異なります。

 

食器や食材を洗う作業が重要視されないためにシンクや流しは小型な傾向があり、流しを使わない文化圏もあります。

 

水の消費は南の地域より少なく、動物性脂質をお湯で洗うため食器洗浄機が普及しています。

 

一方、高気温な南の地域では、衛生面の配慮以上に、粘土性の泥が野菜に付いているために調理前に洗う作業が不可欠となります。

 

また、残渣の腐敗が早いことから、使用後の食器や調理器具を洗わずにはいられません。

 

大量の水を使用する南の地域の台所には水の確保や処理に関する道具や、家屋を湿気から守る工夫が多く見られます。

 

 

食物を調理するためには、洗う、切る、煮炊きするなどの動作が必要です。

 

竪穴式住居では各住居の中央において、直火による加熱調理が行われ、高くなった中央が排煙の役割を果たしました。

 

このように家族が密集した状態では、衛生上問題があり、また、これらを機能的に満足させることができませんでした。

 

そのため、はじめ、住居の端に台所空間が移動させられましたが、そのうちに独立した室が作られたのが、台所のはじまりとされています。

 

江戸時代には、井戸端や川辺で食材や食器などの洗浄を行い、それを住居内の木製の流しに持ち帰って台所仕事が行われていました。


明治時代になっても庶民の住宅の台所は竈(かまど・へっつい)を中心とする床上空間と蹲踞(つくばい)式流しを中心とする土間空間に分かれていました。

 

ガスも普及しておらず竈と七輪が熱源となっていました。

 

水道の普及により土間の置き流しに直接水が注げるようになったが、火や水を使うためには、しゃがみこむ必要がありました。


大正時代に入ると大正デモクラシーとともに台所改善運動が起こり、立った姿勢で調理ができるようにすることと電気・水道・ガスの近代設備の整備が課題とされていました。

 

しかしこれらが農村部にまで定着したのは第二次大戦後になってからだそうです。
戦後になるとステンレス流し台やシステムキッチンが登場しました。

 

ステンレス流し台は1956年に晴海団地のダイニングキッチンに初めて導入され一般家庭にも普及していきました。

 

また、昭和40年代後半には空間や用途にあわせてキャビネットやユニットを選択できるシステムキッチンが登場しました。