今日は何の日?
2月26日は咸臨丸(かんりんまる)の日
1860(万延元)年、江戸幕府がオランダに作らせた日本初の本格的な洋式軍艦である咸臨丸が、太平洋を横断してサンフランシスコに到着した日です。
咸臨丸はその後、明治政府の輸送船になりました。
なお、咸臨丸が日本を出航したのは同年の1月13日(18日・19日の説もあり)で、その日は「咸臨丸出航記念日」となっています。
咸臨丸は、幕府海軍が保有していた軍艦。木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベットです。
「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味します。
洋式の軍艦としては、観光丸(外輪船)に次ぐ2番艦ですが、洋式のスクリューを装備する船としては初の軍艦です(スクリューは入出航時に主に使用され、航海中は抵抗を減らすため水線上に引き上げる構造になっていました)。
姉妹艦には朝陽丸(旧称エド号)及び電流丸(旧称ナガサキ号)があります。
幕府の船として初めて太平洋を往復したことから名を知られます。幕府の練習艦として用いられた後、戊辰戦争に参加するものの、軍艦としての機能は他艦に劣り、既に運送船の役割を担っていた咸臨丸は新政府軍によって拿捕されます。明治政府に接収された後、開拓使の輸送船となりました。
咸臨丸は1855年7月、オランダのキンデルダイクにて起工。1857年3月に完成し、8月4日(旧暦)に日本へ送られ長崎海軍伝習所の練習艦となりました。
1860年(万延元年)、日米修好通商条約を交換するため、遣米使節団が派遣された際、正使一行が乗艦するアメリカ軍艦ポーハタン号の別船として本艦も派米。福澤諭吉らも便乗していました。
1862年(文久2年)、小笠原諸島を巡視し、父島と母島を探検(艦長は小野友五郎)しました。
1866年(慶応2年)、酷使が祟り、疲弊が激しく故障頻発していた蒸気機関を撤去。帆船となります。
1868年(慶応4年)、戊辰戦争が起こり、8月19日 (旧暦)、海軍副総裁榎本武揚の指揮下で、旧幕府艦隊として江戸(品川湊)から奥羽越列藩同盟の支援に向かいます。
8月23日 (旧暦)、銚子沖で暴風雨に遭い榎本艦隊とはぐれ、下田港に漂着。救助に来た蟠竜丸と共に清水へ入港しました。9月11日 (旧暦)、蟠竜丸は先に出航しましたが、咸臨丸は修理が遅れたため新政府軍艦隊に追い付かれます。
新政府軍艦隊に敗北し、乗組員の多くは戦死または捕虜となります。逆賊として放置された乗組員の遺体を清水次郎長が清水市築地町に埋葬。山岡鉄舟の揮毫した墓が残っています。
1871年9月19日 (旧暦)、片倉氏の旧臣401名を移住させる目的で北海道小樽へ向け出航しましたが、輸送途中、北海道木古内町泉沢沖で暴風雨(米人船長の操船ミス説も存在)により遭難し、サラキ岬で破船、沈没します。
1887年、清水次郎長が清水市興津の清見寺に咸臨丸乗組員殉難碑を建立しました。
1984年、サラキ岬沖で鉄製の朽ちた錨が発見され、咸臨丸のものかと話題になりました。そして、2006年9月20日、錨は咸臨丸のものと発表されました。
日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団が派遣されることになった際、正使一行はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗艦することになっていましたが、同艦の随伴艦として、幕府海軍の練習航海も兼ねて、本艦も派米されました。
士官はいずれも長崎海軍伝習所の教員がそのまま乗船していましたが、出発前に「軍艦奉行」に昇進して遣米副使としての任も与えられた木村摂津守を除いて、艦内組織は未整頓のままであり、教員の主席にあたる「軍艦操練所教授方頭取」であった勝海舟が先任士官として運用の実質的責任者となったものの、指揮系統の混乱を招きました。
なお対外的には、通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)は勝が艦長、木村が提督との説明で押し通しています。
旧暦1月13日品川を出帆、旧暦1月19日に浦賀を出港し、旧暦2月26日(太陽暦3月17日)にサンフランシスコに入港しました。
往路は38日間・4,629海里 (8,573 km)の航海でしたが、出港直後から荒天に見舞われ、艦の各所が破損したほか、日本人の乗員は疲労と船酔いでほとんど行動不能に陥り、艦の運用は、技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉指揮下のアメリカ人乗員が代行しました。
また上記の指揮系統の未整頓もあって、当初は組織だった当直体制が確立されておらず、荒天下での艦の運用に支障を来しました。
復路はハワイ経由での航海となった。往路で同乗したアメリカ人水夫のうち5名を雇った以外は日本人のみでの運用となっており、往路の反省から、アメリカ滞在中に得た知見も踏まえて、当直などの運用体制が整備されたものの、45日間・6,146海里 (11,382 km)の航海はおおむね好天に恵まれ、その練度向上を確かめる機会はありませんでした。
この派米任務は、往復83日間・合計10,775海里 (19,955 km)の大航海を成功させたことで、幕府海軍に大きな自信を与えました。
しかし一方で、往路でのアメリカ人乗員による助力は過小評価され、航海・運用の技量不足という重大な問題点が見過ごされたことは、蝦夷共和国時代に艦隊主力を海難で喪失する遠因となるなど、大きな禍根を残すこととなりました。
さて、毎日続けてきた「今日は何の日?」も本日で1年経ちました。
という事で記念日マラソンは今日でゴールとなります!
2月27日の「ツナの日」からスタートした時は、餅太郎のおじいさんとおばあさんのセリフも一言で、ブログの内容も一言で終わらせていましたが、徐々に長くなっていき、最終的にはガッツリ内容を書くようになっていました。
途中で挫折しそうになりながらも何とか1年続ける事が出来ました。
ほとんど、ネットで調べた事をそのまま書いていただけですが、お楽しみいただけましたでしょうか?
それでは皆様、「今日は何の日?」めでたく終了です。読んで頂いてありがとうございました。