今日は何の日?
1月31日は生命保険の日
1881年7月に日本初の生命保険会社が設立され、翌1882年のこの日、受取人第一号が現れました。
この年の1月20日に心臓病で急死した警部長で、遺族に支払われた保険金は1000円、当人が払った保険料は30円でした。
日本では慶応3年(1868年)に福澤諭吉が著書「西洋旅案内」の中で欧米の文化の一つとして近代保険制度(損害保険、生命保険)を紹介したことが発端となり、1880年に岩倉使節団の随員だった若山儀一らによる日東保生会社(日本初の生命保険会社)開業されるますが、倒産してしまいます。
1881年7月、福沢諭吉門下の阿部泰蔵によって現存最古の保険会社・有限明治生命保険会社が開業されました。
1888年には国内で2番目の保険会社として帝国生命(現朝日生命)、3番目に1889年には日本生命が誕生しました。
だが、当初は「人の生死によって金儲けをするのか」という誤解に基づく批判も多く、その普及には時間がかかりました。
戦前までの生命保険会社の特徴としては、法人の形態が現在のような保険業法に定める相互会社ではなく、株式会社が主流でした。
また、普通の生命保険会社とは別に、徴兵保険と呼ばれる保険を扱う徴兵保険会社がありました。
現存する保険会社の中でも、富国徴兵保険(現 富国生命)、第一徴兵保険(旧 東邦生命、AIGエジソン生命保険に継承)、第百徴兵保険(旧 第百生命、マニュライフ生命に継承)、日本徴兵保険(旧 大和生命)などがそうです。
徴兵保険とは、養老保険の一種で子供が小さいうちに加入しておくと、その子供が徴兵などのときに保険金が給付されるというものであったようです。現代で言えば学資保険のような商品といえます。
こうしたことからも戦前までは養老保険などの貯蓄性の高い商品がその主流でした。
親子や兄弟・親類が同居・隣接するなどの家族構成や地縁・社縁・血縁で支え合う機能が十分に機能しており、生命保険に求められている遺族の生活を補償する役割のウエイトがそれほど高くなかったと言えます。
戦後、こうした生命保険会社の多くは株式会社から相互会社に衣替えし、再出発しました。
この時期に女性営業職員による募集が考案され、戦争未亡人の働き口として供給が豊富だったこともあり、各社がこぞってこの方式(セールスレディによる護送船団方式による職域営業)を採用するようになりました。
また家族構成も親子だけで暮らすなどの核家族化が進み、地縁・社縁・血縁もかつてと比べると希薄となり、万が一に際しての遺族の生活を補償する役割は個々人に求められるようになった事から主流の商品は従来まで人気の高かった貯蓄性の高い養老保険から保障の大きな定期付養老保険、さらには定期付終身保険へと徐々にシフトしていきました。
この時代の主な動きとして、1973年にアリコ(現メットライフ生命)、1974年にはアフラックによるガン保険などの第三分野保険を足がかりとして、外資系保険会社が参入を始めます。
日米貿易協定の関係から国内生保は第三分野保険を単体(主契約)で販売することができず、従来商品であった死亡保障に特約で医療保障を提供を始めます。
またこれまで長く続いていたセールスレディによるセット商品での販売手法に対して、1981年当時世界最大の生命保険会社であった米国プルデンシャル・ファイナンシャルとソニーが合弁会社でソニー・プルデンシャル生命(現ソニー生命)を設立。
大学卒業以上の学歴を有し、税制・法律・社会保障などの関連知識を備えた生命保険の専門家ライフプランナーによるコンサルティングセールスで営業を開始。
その後に登場するファイナンシャル・プランナーによるライフプラン表の作成・収支分析・家計相談などの基礎となる提案スタイルと生命保険における専門職という新しいチャネルを生命保険業界へ持ち込みます。
また一方でいわゆるバブル景気(以下「バブル期」)による金利の上昇と不動産の価格高騰は、「超長期固定金利」の商品(定額保険)を扱う生命保険会社にも多大な影響を与えました。
一つにはバブル崩壊後、高い予定利率の保有契約を多数抱えてしまったこと、もう一つには、資産運用手段として不動産への投資、あるいは不動産関連の融資を行ったことで、保有資産・貸出資産が不良化してしまったことです。
この結果、資産運用による収益力が落ち込むとともに、運用は延びずに予定利率との差額が発生する「逆ザヤ」により経営基盤が不安定になっていきました。
当時、経営が悪化していた会社は渋谷付近に本社を置いていたものが比較的多く、それらの中でも特に日産生命・千代田生命・東邦生命・日本団体生命を指して「渋谷4社」と呼ばれることがありました。
結果的にこれら4社のうち、日本団体生命(アクサ生命と統合)を除く3社は経営破綻しており、その他に大正生命・協栄生命・東京生命の3社が破綻しています。
一方、バブル期には株式投資が活発化したことから変額保険が注目されました。
一般的な生命保険は定額保険と呼ばれており、契約時の保障額が変動することはありません。
そのため経済成長や株価・物価の上昇(インフレーション)局面でその資産価値(保障額)の実質的な目減りが生じます。
変額保険はインフレなどにより長い期間の間に保険金が著しく目減りする定額保険の欠点を補うものとして開発され、この時期の保険契約では注目を集めることとなりました。
また保険金の税の仕組みを活用した相続対策などの名目で生命保険会社によっては銀行と組んで融資と販売をセットにした営業活動を積極的に行いました。
しかし、想定に反して株価はバブル崩壊によって著しく下落し、それによって大幅に目減りした満期返戻金では融資の返済に不足が生じたため、多くの資産家・契約者が損害を被ることとなりました。
このような株価下落時のリスクの説明が不十分だった点や、募集行為上の問題(銀行が積極的に募集に関わったなど)があったことなどにより、保険会社や銀行に対する訴訟が相次ぎました。
この反省から現在の変額保険は運用方法について、複数のアセット(ファンド・投資信託)を契約者が指定し選択することにより分散投資が任意で行える、死亡保険金の保険金額は最低保証される、契約者からの預かり資産は特別勘定によって管理・運用されることで保険会社が破たん・経営難となった場合でもその運用資産の大部分は影響がないなどの規制を行うことにより、バブル期の頃の変額保険と比べて大きくリスクは減少しています。
前述に挙げた通りバブル崩壊後の生命保険業界は予定利率による逆ざやにより破たんする会社が相次ぎ、生命保険そのものへの信頼が揺らぎかねない時代へと突入しました。
このため生命保険業界と保険会社各社は契約者からの信頼を回復するために業界の再建を目指していたが最中の2005年~2007年と相次ぎ保険金不払い問題が発生し、生命保険における様々な問題が大きく注目されるようになりました。
また第一次日本版金融ビッグバン(金融の自由化)の一環として銀行・保険・証券や損害保険と生命保険など業界の「垣根(ファイヤーウォール)」を取り払い、相互に参入を自由化しようという政策が進展しました。
これに伴い保険業法も1995年に全面改正され、保険料の自由化や第三分野保険の完全自由化、従来の保険外交員による販売チャネルとは異なる乗合代理店・銀行窓販・ネット生保などの解禁、一社専属に限られていた生命保険募集人が一部緩和されて仲立人としての保険ブローカーが認められます。
またインターネットの普及により契約者が保険会社・保険商品を比較検討するための情報へアクセスしやすくなる等の変化が訪れました。