今日は何の日?
1月12日は桜島の日
1914年、鹿児島県の桜島で、史上最大の大噴火が始りました。
35人の死者を出し、流出した溶岩によって対岸の大隅半島と地続きになりました。
桜島は、日本の九州南部、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)にある東西約12km、南北約10km、周囲約55km、面積約77km2の火山です。
かつては島でしたが、1914年の噴火により、鹿児島市の対岸の大隅半島と陸続きとなりました。
桜島火山は姶良カルデラの南縁付近に位置しており,このカルデラの2.9万年前の巨大噴火の3千年ほど後に誕生しました。
日本の火山の中では比較的新しい火山です。桜島火山は有史以来頻繁に繰り返してきた噴火の記録も多く、現在もなお活発な活動を続けています。
海の中にそびえるその山容は特に異彩を放っており、鹿児島のシンボルの一つとされ、観光地としても知られています。
2007年に日本の地質百選に選定されました。国際火山学及び地球内部化学協会が指定する特定16火山のひとつです。
また、火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されています。
大正大噴火
1914年1月12日に噴火が始まり、その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出しました。一連の噴火によって死者58名を出しました。
流出した溶岩の体積は約1.5km3、溶岩に覆われた面積は約9.2km2、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m、最深部100m)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになりました。
また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石等を含む降下物の体積は約0.6km3、溶岩を含めた噴出物総量は約2km3(約32億トン、東京ドーム約1,600個分)に達しました。
噴火によって桜島の地盤が最大約1.5m沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認されました。この現象は桜島北側の海上を中心とした同心円状に広がっており、この中心部の直下、深さ約10kmの地中にマグマが蓄積されていたことを示しています。
噴火の前兆
1913年6月29日から30日にかけて中伊集院村(現日置市)を震源として発生した弱い地震が最初の前兆現象でした。
同年12月下旬には井戸水の水位が変化したり、火山ガスによる中毒が原因と考えられる死者が出るなどの異変が発生しました。
12月24日には桜島東側海域の生け簀で魚やエビの大量死があり、海水温が上昇しているという指摘もありました。
翌1914年1月に入ると桜島東北部で地面の温度が上昇し、冬期にも拘わらずヘビ、カエル、トカゲなどが活動している様子が目撃されています。
1月10日には鹿児島市付近を震源とする弱い地震が発生し、翌11日にかけて弱い地震が頻発するようになりました。噴火開始まで微小地震が400回以上、弱震が33回観測されています。
1月11日には山頂付近で岩石の崩落に伴う地鳴りが多発し、山腹において薄い白煙が立ちのぼる様子も観察されています。
また、海岸のいたるところで温水や冷水が湧き出たり、海岸近くの温泉で臭気を発する泥水が湧いたりする現象も報告されています。
噴火開始当日の1月12日午前8時から10時にかけて、桜島中腹からキノコ雲状の白煙が沸き出す様子が目撃されています。
噴火の経過
1914年1月12日午前10時5分、桜島西側中腹から黒い噴煙が上がり、その約5分後、大音響と共に大噴火が始まりました。
約10分後には桜島南東側中腹からも噴火が始まりました。間もなく噴煙は上空3,000m以上に達し、岩石が高さ約1,000mまで吹き上げられました。
午後になると噴煙は上空10,000m以上に達し桜島全体が黒雲に覆われました。大音響や空振を伴い断続的に爆発が繰り返されました。
午後6時30分には噴火に伴うマグニチュード7.1の強い地震(桜島地震)が発生し、対岸の鹿児島市内でも石垣や家屋が倒壊するなどの被害がありました。
1月13日午前1時頃、爆発はピークに達しました。噴出した高温の火山弾によって島内各所で火災が発生し、大量の軽石が島内及び海上に降下し、大量の火山灰が風下の大隅半島などに降り積もりました。
午後5時40分に噴火口から火焔が上っている様子が観察され、午後8時14分には火口から火柱が立ち火砕流が発生し、桜島西北部にあった小池、赤生原、武の各集落がこの火砕流によって全焼しました。
午後8時30分に火口から溶岩が流出していることが確認されました。桜島南東側の火口からも溶岩が流出しました。
1月15日、赤水と横山の集落が、桜島西側を流下した溶岩に覆われました。この溶岩流は1月16日には海岸に達し、1月18日には当時海上にあった烏島が溶岩に包囲されました。
一方、桜島南東側の火口から流下した溶岩も海岸に達し、噴火前には72mもの深さがあった瀬戸海峡も埋め立てられていき、1月29日、桜島が大隅半島と陸続きになりました。
このとき瀬戸海峡付近の海水温は49℃に達しました。溶岩の進行は2月上旬に停止したましたが、2月中旬には桜島東側の鍋山付近に新たな火口が形成され、溶岩が流出しました。
1915年3月、有村付近に達した溶岩の末端部において、2次溶岩の流出がありました。
噴火活動は1916年にほぼ終息しました。この噴火によって直径400mのほぼ円形の大正火口が残されました。
避難の状況
噴火の前兆となる現象が頻発し始めた1月10日夜から、住民の間で不安が広がり、地元の行政関係者が鹿児島測候所(現・鹿児島地方気象台)に問い合わせたところ、地震については震源が吉野付近(鹿児島市北部)であり、白煙については単なる雲であるとし、桜島には異変がなく避難の必要はないとの回答でした。
それでも1月11日になると、避難を始める住民が出始めました。桜島東部の黒神、瀬戸、脇の各集落では地域の青年会が中心となり、女性・子供・老人を優先に、牛根村、垂水村(現垂水市)方面への避難が進められました。
また、桜島北部の西道、松浦においても、青年会が中心となり、鹿児島湾北部の重富村(現姶良市)、加治木町(同)、福山村(現霧島市)方面への避難が進められました。
一方、鹿児島市街地に近い桜島西部の横山周辺は、測候所の見解を信頼する者が多かったため避難が遅れ、1月12日午前の噴火開始直後から海岸部各所に避難しようとする住民が殺到し大混乱となりました。しかし、西桜島村の死者は3名のみでした。
桜島東側の瀬戸海峡は海面に浮かんだ軽石の層が厚さ1m以上にもなり、船による避難は困難を極めました。
対岸の鹿児島市は、鹿児島湾内に停泊していた船舶を緊急に徴用して救護船としたが間に合わず、東桜島村では、混乱によって海岸から転落する者や、泳いで対岸に渡ろうとして凍死したり溺死したりする者が相次ぎました。
この教訓から、鹿児島市立東桜島小学校にある桜島爆発記念碑には「住民は理論を信頼せず、異変を見つけたら、未然に避難の用意をすることが肝要である」との記述が残されており、「科学不信の碑」とも呼ばれています。
桜島対岸の鹿児島市内においては1月12日夕刻の地震発生以降、津波襲来や毒ガス発生の流言が広がり、市外へ避難しようとする人々が続出しました。
鹿児島駅や武駅(現鹿児島中央駅)には避難を急ぐ人々が集まり騒然となりました。市内の混乱は1月17日頃まで続きました。
噴火の影響
噴火によって降り積もった火山灰は、火砕流に襲われた赤生原付近や風下にあたった黒神と大隅半島の一部で最大1.5m以上、桜島の他の地域でも、30cm以上の深さに達しました。
桜島島内の多くの農地が被害を受け、ミカン、ビワ、モモ、麦、大根などの農作物は、ほぼ全滅しました。
耕作が困難となった農地も多く、噴火以前は2万人以上であった島民の約3分の2が島外へ移住しました。移住先は種子島、大隅半島、宮崎県を中心とした日本各地のほか、朝鮮半島に移住する者もありました。
災害復興のために、桜島と鹿児島市街地を結ぶ定期航路を望む声が上がり、1934年11月19日に当時の西桜島村が村営定期船の運航を開始しました。その後の桜島フェリーです。