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1月10日は明太子の日

 

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今日は何の日?

1月10日は明太子の日

 

福岡の食品会社ふくやが制定しました。


1949年のこの日、前年に創業したふくやは、研究を重ねてきていた「味の明太子」を初めて店頭に並べました。

 

ここに福岡名産の一つが誕生したわけです。

 

 

辛子明太子は、スケトウダラの卵巣(たらこ)を唐辛子などで漬け込んだものです。

 

 

朝鮮語で、スケトウダラを「明太」(ミョンテ) と呼ぶことに由来します。

 

なお、朝鮮半島東南部の方言では、「明太」を「メンテ」と発音します。

 

ただし朝鮮語においてはタラコのことを「明卵」と呼ぶため、明太子という表現は日本独自のものです。

 

なお、日本で「鱈」の字が文書に現れるのは1670年であり、そもそもはスケトという呼び名でした。

 

また、中国語でもスケトウダラを「明太魚」、ロシア語でも「минтай(ミンタイ)」と呼ぶことがありますが、これらは本来の名称ではなく朝鮮語に由来する外来語です。

 

明太子とは「スケトウダラの子」という意味であり、本来は「たらこ」を示す言葉として使うのが正しいそうです。

 

 

下関や博多をはじめとする西日本の一部地域では、唐辛子を使わないいわゆる「たらこ」を示す言葉として辛子明太子と使い分けられています。

 

今日では「明太子」を辛子明太子を指す言葉として用いる人が多く、さらには「めんたい」と略されて「めんたいスパゲティー」や「めんたいロック」など九州博多の代名詞としても用いられることもあります。

 

これは元々たらこを示す言葉としての「明太子」が使われない地域に、お土産や特産品として「辛子明太子」がもたらされ、やがてその略称としての「明太子」が全国的に広がったためと考えられます。

 

 

辛子明太子の歴史は、辛子明太子業者や関係者に伝わる諸説が複数存在します。

 

まぶし型辛子明太子
日露戦争直後から太平洋戦争中にかけて、鉄道省(後の日本国有鉄道→現・JRグループ)は下関と当時日本領であった朝鮮の釜山との間に関釜連絡船を運航していました。

 

また、中国との定期連絡船も存在し、スケソウダラ(明太魚)の辛子漬け(明太卵漬け)を運んでいました。

 

韓国側の連絡船では釜山を経由して、明太の卵巣の辛子漬け(「明卵漬(ミョンランジョッ)」)が下関へ輸入されました。

 

この当時の明太卵漬けはタレと唐辛子に漬け込まれており、韓国側の明卵漬は唐辛子やニンニクで漬け込んだ現代の「キムチ」に近いものでした。

 

漬け込み型辛子明太子
ふくやの川原俊夫が若いころに釜山で食べた明卵漬の記憶を基に漬け込み型の辛子明太子を開発しました。

 

まぶして作る辛子明太子は徐々に減っていき、調味液漬けの辛子明太子がほとんどとなりました。

 

この漬け込みでは「乳酸発酵」を伴います。

 

漬け込みに際しては、各社工夫をして異なる方法や副材料を使用する事もあります。

 

韓国の明卵漬にはにんにくが大量に使用され、日本のものとはかなり風味が異なる食品となっています。

 

 


ふくやの後を追って、1960年代には多くの同業者が設立されました。

 

1975年に山陽新幹線が博多駅まで繋がり、東京博多開全通後に設立された福さ屋が新幹線駅や東京の三越百貨店等へ販路を築き、全国的に知れ渡るようになりました。

 

近年では料亭や老舗醤油メーカーなども明太子を扱うようになり、良質の原材料を贅沢に使用した高級品の研究も進んでいます。

 

博多名産・辛子明太子のほうが全国へ波及したために下関のまぶし製法よりも博多で盛んであった漬け込み製法が主流となり、現在でも量販向けで広く流通しています。

 

まぶし製法も少数ながら生産されており市場向けの高級品として流通し、棲み分けがなされています。

 

1980年代には土産物の販売ルート以外にも、百貨店・量販店で広く販売されるようになり、全国でおにぎり・パスタの具として広く利用・販売されています。

 

2007年には、おにぎりなどの加工用辛子明太子の出荷量が、ついに土産用の辛子明太子の出荷量を逆転しました。

 


辛子明太子は日本全国に広がり、その普及の裏で誰が辛子明太子の元祖かを調べ主張する者がいます。

 

これはかつて各業者がそれぞれ自分だと名乗っていたから混乱が起きたのであり、日本統治時代の朝鮮で現地の辛子漬け明太子を初めて販売した樋口、戦後のパイオニアを育てた山根、まぶし型の始祖・高井、現在の辛子明太子の直系を造った川原の労があって今日に至っているという説があります。

 

このように多くのプロセスを経て今日の辛子明太子が日本に普及したのです。