今日は何の日?
1月8日はロックの日(エルヴィス・プレスリーの日)
1935年にエルヴィス・プレスリーが、1947年にデビット・ボウイが生まれた日です。
エルヴィス・アーロン・プレスリーは、1950年代にチャック・ベリーやファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、バディ・ホリーらと共にロック・アンド・ロール(ロックンロール)の誕生と普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大な影響を与えた人物です。
その功績からキング・オブ・ロックンロールまたはキングと称され、ギネス・ワールド・レコーズでは「史上最も成功したソロ・アーティスト」として認定されています。
1950年代に、アメリカやイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀の音楽の中でも最大級のムーブメントを引き起こしました。
また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされています。
後に同じく世界を席巻したザ・ビートルズのメンバーが憧れ続けたことでも知られています。
今まで保守的な大人たちは「ロックは若者を悪くする(非行にさせる)」と考えプレスリーの音楽を禁止し弾圧運動を展開していきましたが、それを跳ね返すかのように若者たちの間でさらにブームは拡大していきました。
これによって多くの人々が初めてロックンロールに触れ、ロックンロールは一気にメジャーなものとなりました。
また、いままで音楽を聞かなかった若年層(特に若い女性)が、音楽を積極的に聞くようになりました。
さらに、音楽だけでなくファッションや髪型などの流行も若者たちの間に芽生え、若者文化が台頭しました。
初期のプレスリーのスタイルは黒人の音楽であるリズムアンドブルースと白人の音楽であるカントリー・アンド・ウェスタンを掛け合わせたような音楽といわれています。
それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカではありえないことであり、画期的なことでした。
1977年8月16日、自宅であるグレイスランドにて42歳の若さで死去しました。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第3位。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第3位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第1位。
1935年ミシシッピ州テューペロに生まれます。後にテネシー州メンフィスへ渡りました。
ミドルネームは公文書、サイン共にAronですが、墓石にはAaronと表記されています。
身長は183cm。髪は茶褐色ですが黒く染めていました。飲酒はしない。趣味はバッジ収集。愛車は59年型キャデラック。
好きな食べ物はピーナッツバター・サンド。熱心なキリスト教プロテスタントの信者であり、9歳の時に洗礼を受けました。
空手8段とされていますが、それは誤りだそうです。
松濤舘空手を軍隊時代に学んだことは事実ですが、8段ではありませんでした。
1967年5月1日にプリシラ・プレスリーと結婚し、1968年2月1日に長女で一人娘のリサ・マリー・プレスリーが誕生しました。
プレスリーは最初「The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始め、その後すぐに歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから、(彼に批判的な人々から)「Elvis the Pelvis(骨盤のエルヴィス)」と呼ばれました。
アメリカのバラエティー番組『エド・サリヴァン・ショー』の3度目の出演の際には、保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にプレスリーの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられています。
その際にサリヴァンが「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と紹介したことからサリヴァンにも罵声が飛びました。
しかしこのおかげでプレスリーへの批判は少なくなりました。
また、フロリダの演奏では下半身を動かすなとPTAやYMCA(キリスト教青年会)に言われ、小指を動かして歌いました。
この時には警官がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていました。
ステージでの華やかさに反して緊張しやすい性格で、レコード会社の門を叩けずに、入り口付近でウロウロ、ソワソワしていたこともあった模様。「初舞台の時には死ぬほど緊張した。観客の声が怖かったんだ」との言葉も残っています。
KWKラジオではプレスリーのレコード(「ハウンドドッグ」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送しました。
ロックンロールが青少年の非行の原因だと中傷され、PTAはテレビ放送の禁止を要求など、様々な中傷の標的になりました。
プレスリーは友達だと思った人間には尽くすタイプでした。反対に「エルヴィスのお金や贈り物を求めて近付いてくる人間には、その姿勢に気付き距離を置いていたようである」とバンド・メンバーは回想しています。
プレスリーの記録は多数あり、例えば、最も成功したソロアーティスト、最多ヒットシングル記録(151回)、1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(死の翌日)、等がギネスによって認定されています。
ヨーロッパにおいて、ロックンロールという新しい音楽への興味を生じさせました。
クリフ・リチャード、ボブ・ディラン、ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、フレディ・マーキュリー、ルー・リード、ロバート・プラント、ブルース・スプリングスティーン、ジョン・ボン・ジョヴィなどをはじめとする多数の大物アーティストがミュージシャンを志したきっかけとなりました。
冷戦下で、プレスリーはヨーロッパ進出を考えていたアメリカのミュージシャンの先駆者になりました。
世界中のティーンエイジャーは、プレスリーの「ダックテール」と呼ばれる横髪を後ろへなで付けるヘアスタイルをこぞって真似し始めました。
そして、黒いズボンや緩い開襟シャツといったプレスリーのニュールックは、ファッションの新たな潮流を作り、その大きな需要を生み出しました。
プレスリーの影響は、経済大国における大量消費を行う最初のティーンエイジャー世代を生み出しました。
エルヴィス・プレスリーを慕うミュージシャンに、ドイツのオペラ歌手ペーター・ホフマンらがいます。
1977年にジミー・カーター大統領は「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。彼の音楽とその個性は白人のカントリー音楽と、黒人特有のリズム・アンド・ブルースのスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった。」と語っています。
ジェームズ・ブラウンは「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」という言葉を書き残しています。
アメリカ内務省のゲイル・ノートン長官は2006年3月27日、プレスリーが約20年間を過ごした、テネシー州メンフィスの邸宅「グレイスランド」を国の国定史跡に認定しました。
認定の式典は一般公開で行われ、娘であるリサ・マリー・プレスリーも出席しました。
デヴィッド・ボウイは、1947年1月8日、イギリスのロンドン南部ブリクストンにケント出身でウェイトレスをしていたマーガレット・マリーと、ヨークシャー出身で子供のためのチャリティー団体Barnardo'sで広報活動をしていたヘイウッド・ステントン・ジョーンズの間に生まれました。
本名はデヴィッド・ロバート・ヘイウッド・ジョーンズです。
一家は、ロンドン南部のブリクストンとストックウェルの境界に近い、40 Stansfield Roadに住んでおり、ボウイは6歳になるまでストックウェルの幼児学校に通っていましたが、1953年に一家はブロムリーの郊外に引っ越します。
子供の頃から、音楽好きの父親が買ってくるフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ、プラターズ、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーなどの、アメリカのポピュラー・ロック音楽に親しみます。
ボウイは、異父兄であるテリー・バーンズの影響でモダンジャズに関心を持つようになり、特にチャールズ・ミンガスやジョン・コルトレーンにあこがれるようになりました。
ボウイが14歳になった1961年、母親はプラスチック製のアルト・サックスを彼に贈り、その後さっそく地元のミュージシャンにレッスンを受けるようになります。
1962年、ボウイは重傷を負う。学校でガールフレンドを巡る喧嘩を起こし、その際に彼の友人のジョージ・アンダーウッドが左目を殴ったために、4か月の入院と数度にわたる手術をその左目に受ける羽目になりました。
結果として医師は、ボウイの視力が完全には回復しそうもなく、左目の知覚能力は不完全で、また常に瞳孔が散大した状態であり続けることを確認しました。
ボウイの虹彩の色が左右で違うのは目を殴られたためとの説がありますが、先天性の虹彩異色症によるものだそうです。
なお、この一件にも関わらず、二人の友達づきあいはそれからも続き、アンダーウッドはボウイの初期のアルバムのアートワークを制作しました。
1962年ボウイが15歳の時に、プラスチック製のアルト・サックスを卒業して、本物の楽器を扱うようになり、また、彼にとっての最初のバンド「Konrads」を結成しました。
このバンドではギターかベースを担当し、主な演奏場所は若者の集まりか、あるいは結婚式でした。
バンドのメンバーは概ね4人から8人の間で、その中にはボウイとガールフレンドを取り合ったアンダーウッドも居ました。
1964年6月5日に「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ」名義で最初のシングル「リザ・ジェーン」を発表。
しばらくはヒットに恵まれず、「ザ・マニッシュ・ボーイズ」「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード」などと名を変えましたが、同じ歌手のデイビー・ジョーンズと紛らわしいことから、1966年4月のシングル「Do Anything You Say」から使い始めた「デヴィッド・ボウイ」でやっと芸名が定着することになります。
このボウイの名前は19世紀に活躍したアメリカの開拓者であるジェームズ・ボウイと、彼が愛用していたナイフであるボウイナイフから取られました。
1967年6月、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ』を発表。
アルバム製作中にチベット仏教に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加している。同年9月に短編映画『イメージ』(1968年)への出演が決定し、その撮影の際にリンゼイ・ケンプと出会っています。
ボウイはロンドン・ダンスセンサーでのケンプのダンスクラスに習い、ケンプの下でコンメディア・デッラルテなどから学んだアバンギャルドとパントマイムによってドラマティックな表現を身につけ、そこから世界に対して見せつける自身のペルソナの制作に熱中しました。
1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ』を制作。
アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル「スペイス・オディティ」をリリース。全英チャート5位、全米チャート15位まで上がり、人気ミュージシャンの仲間入りを果たしました。
大抵、名声を得たミュージシャンは、その時点までに確立した己のスタイルを貫こうとし、ファンもまたそれを望んでいるものですが、ボウイの場合はスタイルを変化させることによってファンを失う危険をものともせず、様々なジャンルにわたる大胆な音楽性の変化を繰り返し、それぞれのジャンルにおいてエポックメイキングな作品をリリースしています。
時代ごとに超個性的なミュージシャン達とコラボレーションを行うのみならず、はるか年少のアーティスト達とも積極的に交流する柔軟さも持ち、批評的・商業的なリアクションはその時々で不安定ながら、生涯貪欲で前進的な創作を続けました。
そのためか、1970年代・1980年代以降のミュージック・シーンは、なにかしらボウイの音楽的影響を受けているミュージシャンも多いようです。
ジャパンやデヴィッド・バーン、カルチャー・クラブ、ヴィサージ、スパンダー・バレエ、デュラン・デュラン、トレント・レズナー、ビリー・コーガンなど、多方面に亘ります。
また、「メジャーなカルトヒーロー」と言われ、時代時代の音楽に対する明敏さを生かし、それまでとは打って変わった音楽性という実験を繰り返しながら、様々な意味での自己刷新を計ることが多いため、安定した商業面での成功をおさめるには不利といえますが、セールス的には成功している部類に入り(ただし所謂ロックレジェンドとしては格段に総セールスが少ない)、アーティスティックな面と商業面をうまく両立させている数少ないミュージシャンです。
1973年には初の日本公演を果たしています。
ボウイは飛行機恐怖症であったことから、来日に際してはアメリカ合衆国から船で来日し、イギリスへの帰国の時も横浜港からナホトカ航路を経由してウラジオストクからシベリア鉄道に乗車したという逸話もあります。
2000年に大英帝国勲章コマンダーを、2003年には大英帝国騎士号をそれぞれ叙勲辞退していますが、1999年にフランス政府より授与された芸術文化勲章コマンドールは受章しています。