今日は何の日?
12月9日は漱石忌
東京・神楽坂近くにある「漱石山房」が漱石終焉の地です。
小さな公園になっており、猫塚なるものもあります。
1916年12月9日、夏目漱石は49歳で永遠の眠りにつきました。
漱石忌とは毎年12月9日、1916年のこの日に49歳で永眠した夏目漱石の業績をしのぶ記念日です。数ある文学忌のひとつです。
夏目漱石は、日本の小説家、評論家、英文学者です。
夏目漱石は1867年2月9日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)という場所で、お父さんの夏目直克(なつめ なおかつ)とお母さんの千枝の5番目の男の子の子供として生まれました。
名前の「漱石」とは作家になってから名乗った名前で、本名は夏目金之助(なつめ きんのすけ)と言います。
5番目の子供という事で、漱石は生まれてすぐに養子に出されます。
しかし、養子先の両親の離婚によって9歳の時に夏目家へ戻るなど、複雑な幼少期を過ごした事もありました。
10代半から大学予備門(後の第一高等学校)進学を目指して英語を学び、1884年に無事に入学します。
当時の漱石は、親友となる正岡子規(まさおか しき)と出会ったり、漢詩の創作や評論といった文学活動を行っていました。
1890年には東京帝国大学(後の東京大学)英文科に入学して無事に卒業。
松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。
帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、代表作「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。
これが評判になりその後、「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書いています。
また、1907年には先生をやめて朝日新聞の社員となる形で、作家として暮らしていく事になりました。
その後も『虞美人草』や『三四郎』といった名作が大ヒット。当初は余裕派と呼ばれました。
しかし漱石は若いころから体が弱く、1910年にはストレスから胃潰瘍になります。
「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。
「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれています。
作家としては大成功をおさめた漱石でしたが、病気が悪くなり、1916年12月9日に49歳で永遠の眠りにつきました。
朝日新聞に1916年5月26日から執筆中だった「明暗」は同年12月14日まで連載し、188回までで未完となっています。
1909年11月6日付けの満洲日日新聞に掲載された漱石の随筆「韓満所感(下)」の記事において、
「歴遊の際もう一つ感じた事は、余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た事である。内地に跼蹐(きょくせき)してゐる間は、日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、日本人も甚だ頼母しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた 同時に、余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵児と云はねばならぬ。」
などと書いており、当時の漱石の「アジア観」が示されています。
この一連の記事に対し、比較文学者の平川祐弘は、
「漱石は植民地帝国の英国と張り合う気持ちが強かったせいか、ストレートに日本の植民地化事業を肯定し、在外邦人の活動を賀している。日韓併合に疑義を呈した石黒忠悳や上田敏のような政治的叡智は示していない。正直に『余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た』『余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた』と書いている。『まあ』に問題はあろうが、ともかくも日本帝国一員として発展を賀したのだ」
と評しています。
1909年11月5日付けの満洲日日新聞に掲載された漱石の随筆「韓満所感(上)」の記事において、伊藤博文の暗殺事件に触れており、
「昨夜久し振りに寸閑を偸(ぬす)んで満洲日日へ何か消息を書かうと思ひ立つて、筆を執りながら二三行認め出すと、伊藤公が哈爾浜で狙撃されたと云ふ号外が来た。哈爾浜は余がつい先達て見物(けぶ)に行つた所で、公の狙撃されたと云ふプラツトフオームは、現に一ケ月前(ぜん)に余の靴の裏を押し付けた所だから、希有の兇変と云ふ事実以外に、場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた」などとした上で「余の如き政治上の門外漢は(中略)報道するの資格がないのだから極めて平凡な便り丈(だけ)に留めて置く」
などと書いており、伊藤博文の暗殺事件に対する感想が綴られています。