今日は何の日?
11月30日はカメラの日(オートフォーカスカメラの日)
1977年のこの日にカメラメーカー小西六写真工業(コニカ)が世界初の自動焦点(オートフォーカス)カメラを販売したことからカメラの日といわれています。
そのカメラは「コニカC35AF」で愛称は「ジャスピンコニカ」です。
2年間で100万台を生産したほどのヒット商品でした。
カメラとは、広義には「像を結ぶための光学系(レンズ等)を持ち、映像を撮影するための装置」です。
また、狭義には「写真(静止画像)を撮影するための道具」です。
被写体の像を感光材料(写真フィルムなど)の上に投影し、適正な露光を与えるための装置を備えています。写真機またはキャメラともいいます。
また、ビデオカメラや映画用カメラ(シネカメラ)等動画を撮影するカメラと区別する意味合いから、スチル(スティル)カメラと呼ぶ場合もあります。
もともとの語源であるラテン語のcameraは「小さな部屋」を意味し、これはのちに政治や財政を司る「部屋」(官房・国庫)などと意味が拡大しました。
カメラの由来である「カメラ・オブスクラ」の「オブスクラ」(やはりラテン語で、obscura)は「暗い」という意味で、全体で「暗箱」ないし「暗室」といったような意味です。
そこから単にcameraでそのような意味となり、転じて、現在の日本語でいうカメラを意味するようになりました。
しかし、化学的に写像を固定するプロセスの発明前には、手でトレースすることは別として、これらのカメラで生じられるイメージを保存する方法はありませんでした。
最も初期のカメラ・オブスクラは、中に人が入れるスペースを持っていました。
これらは徐々に小さいモデルに進化し、写真技術が発明されるほぼ150年前の1685年には、写真撮影に十分実際的にコンパクトな最初のカメラ・オブスクラがドイツ・ヴュルツブルクのイエズス会士ヨハン・ツァーンによって造られています。
最初の固定された写真は、パリでチャールズおよびヴィンセント・シュバリエによって製作されたスライドする木箱型カメラを使ったジョゼフ・ニセフォール・ニエプスによって、1826年か1827年に撮られました。
ニエプスは、銀とチョークの混合物に光を当てると黒くなるというドイツの解剖学者ヨハン・ハインリヒ・シュルツェによる1724年の発見を基にして、ピューター(鉛とスズの合金)板をアスファルトピッチで被覆し、プレートを光にさらすことによって最初の写真を撮りました。
ピッチは光が当たったところが硬化し、硬化されていない部分は後から溶解されました。これが写真撮影の端緒です。
ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールとジョゼフ・ニセフォール・ニエプス(ダゲールのパートナーであったが、彼らの発明が完成する前に死去)は、1836年に最初の実用的な写真技術ダゲレオタイプを発明しました。
ダゲールは銅板を銀で被覆し、そして感度を上げるためにヨウ素蒸気に晒しました。
画像は水銀蒸気によって現像して、塩の溶液で定着しました。
ウィリアム・フォックス・タルボットは、1840年に別のプロセスカロタイプを完成しました。
両者ともツァーンのモデルとほとんど変わらないカメラを使い、イメージを記録するためにイメージスクリーンの前に感光板または感光紙を置きました。
焦点調節は通常スライドする箱で行ないました。
1871年にリチャード・リーチ・マドックスが写真乾板を発明し、カメラマンは既製品を使うことができるようになりました。
また、初めてカメラは手持ちに充分なほど、または隠すことさえできるほど小さくなりました。
携帯カメラからフィールドカメラまで、いろいろなデザインが激増しました。
また感度の向上により、露出時間が短縮されたことにより、シャッターが必要になりました。
最初のシャッターはカメラから独立したアクセサリーでしたが、1900年頃までにカメラに内蔵することが一般的になりました。
写真フィルムの使用はジョージ・イーストマンによって始められました。
彼は1885年に紙フィルムを製造し始め、1889年にセルロイドに変えました。
彼の最初のカメラNo.1コダックは1888年に発売されました。
それは固定焦点レンズと一つのシャッター速度による非常に単純な箱型カメラでした。
そしてその比較的安い価格が平均的な消費者にアピールしました。
コダックは100枚の露出のためのフィルムを予め装填してあり、ロールが終わった時に処理と再装填のために工場に送り返される必要がありました。
1900年頃までには、イーストマンは彼のラインアップをボックスカメラと折りたたみカメラを含む数モデルに拡大しました。
1900年に、イーストマンはスナップショットの概念を提供した単純で非常に安価な箱型カメラブローニーで大人気を得て、さらに一歩大衆市場に踏み出し、様々なモデルが1960年代まで発売されました。
イーストマンによって可能にされる低コスト写真撮影の進展にも関わらず、乾板カメラはまだより高品質のプリントを提供して人気がありました。
ロールフィルムカメラは装填ごとにより多くの撮影を可能にしましたが、それと争うために、この時代からの多くの安価な乾板カメラは数枚の乾板を入れるために、マガジンを備えていました。
乾板カメラのためのフィルムパックまたはロールフィルムを使うことができる特別なバックもあり、ロールフィルムカメラが乾板を使うのを可能にしたバックもありました。
エルンスト・ライツで研究開発を担当していたオスカー・バルナックは、高品質の引伸しプリントを製作することができるコンパクトカメラを造ろうとして、スチルカメラのために35mmの映画フィルムの使用を研究することに決めました。
彼は1913年ごろにプロトタイプの35mmカメラ(ウルライカ)を試作しましたが、第一次世界大戦によって数年開発が遅れました。
エルンスト・ライツは1923年から1924年にその設計を市場調査し、十分よい反響を受け、1925年ライカIの生産を開始しました。
ライカの得た人気は何社かの競争者を生みましたが、特に1932年発売されたコンタックスが重要です。
そして、ハイエンドのコンパクトカメラのためのフォーマットとしての24×36mm(ライカ)判の位置を固めました。
コダックは1938年にレチナIで市場に参入しました。
そしてすべての新しい35mmカメラで使われる135フィルムのカートリッジを導入しました。
レチナは比較的安価でしたが、35mmカメラは大部分の人々にはまだ手の届かないものでした。
そして、まだロールフィルムは大衆用カメラのために選択されるフォーマットでした。
これは、安価なアーガスAの導入で1936年に変わりました。
そして、1939年の非常に人気があったアーガスC3の出現により、さらにより大きな範囲になりました。
最も安いカメラがまだロールフィルムを使いましたが、C3が1966年に生産中止になる頃には、35mmフィルムは市場を支配するようになりました。
未熟な日本のカメラ産業は、1936年にキヤノン35mmレンジファインダーカメラ(1933年のカンノンプロトタイプの改良版)とともに離陸を始めました。
日本のカメラは朝鮮戦争後、日本に駐留した兵士らがアメリカ合衆国その他に持ち帰るようになって、西側で人気が出始めました。
最初からカメラにフィルムを内蔵、取り出しは筐体の解体を前提としたのが「レンズ付きフィルム」です。
使用者がフィルム装填・取り出しを行う必要はなく、撮影終了後はカメラごと現像・プリントの依頼先に引き渡し、通常のフィルムと同様、現像されたフィルムが返却されると同時にプリントされた写真が渡されます(カメラ本体はメーカー側に回収されます)。
商品として一般的な存在になったのは、1986年(昭和61年)に富士写真フイルム(現富士フイルムホールディングス)が「写ルンです」を発売したことによります。
初期モデルは、元からカートリッジ式の110フィルムを採用しており、言葉通り「フィルムケースにレンズ(と、フィルム面までの間の暗箱)を付けたもの」でした。
その後すぐ、一般的な35ミリフィルムで当時の常用としては高感度のISO400を使用したモデルが登場し、そちらが主流となりました(パンフォーカスの性能を成立させるために暗いレンズを用いたことから、これを高感度のISO400フィルムで補っています)。
レンズ付きフィルムの35ミリフィルム仕様の製品は今でも存続しています。
最初の実用的なレフレックスカメラは、1928年のフランケ&ハイデッケのローライフレックス二眼レフカメラでした。
何十年も前から一眼レフカメラも二眼レフカメラも存在しましたが、それらは人気を博すにはあまりに大きいものでしたが、ローライフレックスは充分にコンパクトでした。
中判の二眼レフカメラのデザインはハイエンドとローエンドの両方において人気を得ました。
1935年のコンタフレックス等若干の35mmの二眼レフカメラもありましたが、これらは成功を収めませんでした。
一眼レフカメラにおけるデザインの革命は、1933年イハゲーが発売した127フィルム(ベストフィルム)を使ったコンパクトなエクサクタの発売で始まりました。
この後3年後に35mmのフィルムを使う最初の一眼レフカメラが続きました。
35mm一眼レフカメラは接写や望遠撮影に強い特殊カメラとして一定の人気を得、そして第二次世界大戦後、さまざまな革新を施した新しいモデルが発売されました。
戦後における一眼レフカメラの大きな革新はアイレベルファインダーでした。
そしてそれは、最初は1947年にハンガリーのデュフレックスが実現し、1948年にはペンタプリズムを使う最初のカメラコンタックスSが発売されました。
これらの前は、すべての一眼レフカメラは、ウエストレベルのファインダーを備えていました。
デュフレックスはクイックリターンミラーによる最初の一眼レフカメラでもあり、ファインダーが露出の後、暗くなりませんでした。
同じ時期ハッセルブラッド1600Fが発売されましたが、これは何十年も中判一眼レフカメラの標準となりました。
1952年に、旭光学工業(現ペンタックス)は、135フィルムを使う日本最初の一眼レフカメラ、アサヒフレックスを発売しました。
キヤノン、ヤシカとニコンを含む他の日本のカメラメーカーも1950年代に一眼レフ市場に参入しました。
日本光学(現ニコン)のニコンFは、フルラインの交換可能な構成部品とアクセサリーを持っていて、通常、最初のシステムカメラと考えられています。
それ以前のレンジファインダーカメラのSシリーズに加えて、ニコンの評判をプロ品質の機器メーカーとして確立させたのは、ニコンFでした。
世界初の現実的なインスタントカメラポラロイドモデル95が1948年に市場に出ました。
その発明者エドウィン・ハーバード・ランドにちなみランドカメラとして知られ、特許を受けた化学プロセスを使用し、1分未満でネガからポジプリントを作り出しました。
ランドカメラは比較的高価ではあったが人気を博し、ポラロイドラインアップは1965年のモデル20スィンガーがベストセラーとなるなどして、1960年代までに何十ものモデルに拡大しました。
しかし、20世紀の末からデジタルカメラの普及に伴い、急速に市場が縮小、2008年夏にポラロイドはインスタントフィルムの生産も終了しました。
自動露出を特徴とする最初のカメラはセレン受光素子を装備した1938年の完全自動のスーパーコダック620でしたが、当時としても225ドルと非常に高価のため、成功しませんでした。
1960年代までには低コストな電子部品が一般化し、受光素子と自動露出システムを備えるカメラは非常に多くなりました。
ドイツの小型カメラ「Mec16SB」は、レンズの後に受光素子を置くことで、より正確な測光を可能とした最初のカメラとして1960年発売されました。
しかし、最終的にTTL露出計は他のタイプのカメラより一眼レフカメラでより一般的な特徴になりました。
TTLシステムを備える最初の一眼レフは、1962年のトプコンREスーパーでした。
世界で初めてオートフォーカスを搭載した市販カメラは1977年11月に発売された愛称「ジャスピンコニカ」ことコニカC35AFです。
二つの窓から入った被写体像を二つのミラー(片方は固定、片方は可動)で捉え、その二つの像が合致する箇所を判断、そのピント位置にレンズを駆動します。
すなわち二重像合致式の距離計を自動化した原理です。
これがベストセラーとなりヤシカAFが1978年10月、フラッシュフジカAFが1978年11月、ミノルタハイマチックAFが1979年10月、キヤノン「オートボーイ」AF35Mが1979年11月、ローライフラッシュ35AFが1980年4月、マミヤ135AFが1981年5月、オリンパスC-AFが1981年3月、ペンタックスCP35AFが1982年11月、ニコン「ピカイチ」L35AFが1983年3月と各社追随しました。
ほぼ同時期ながら1978年ポラロイドSX-70は唯一超音波を被写体に投射して距離を測定するシステムにてオートフォーカスを実現しました。
「世界初の市販オートフォーカス一眼レフカメラ」はリコーの「スクープアイ」ことリコーXR6とAFリケノン50mmF2のセットです。
AFリケノン50mmF2は交換レンズ側に測距と自動焦点機能を持ちKマウントのボディ−ならどれに装着してもオートフォーカスが可能でしたが、リコーXR6とセット販売されました。
しかしこれはマイナーメーカーであったせいか、あまり話題になりませんでした。
オートフォーカス一眼レフカメラが、完成した製品として消費者に迎えられたのは、1985年2月発売のミノルタα-7000が最初です。
デジタルカメラは、フィルムの代わりにCCDやCMOSなどの光学センサを用いてデジタル画像データを生成し、メモリーカードなどの記録メディアに保存するという点でアナログのカメラと異なります。
実際に店頭に現れた世界初のデジタルカメラはDycam社が1990年に発売した「Dycam Model 1」です。
電源がなくても記録保持ができるフラッシュメモリを初採用したのは1993年富士写真フイルムから発売された「FUJIX DS-200F」でした。
1995年カシオ計算機のデジタルカメラ「QV-10」は、デジタルカメラの存在と利便性を広く一般に認知させた製品です。
外部記録装置なしで96枚撮影ができ、本体定価6万5,000円を実現して好評でした。
一番のメリットは、液晶パネルを搭載し、撮影画像をその場で確認できることです。
QV-10の成功を皮切りに多くの電機企業が一般消費者向けデジタルカメラの開発・製造を始めました。
QV-10発売の2か月後にリコーから発売されたDC-1にはカメラとしては初めての動画記録機能がありました。
この頃の製品はまだ画質も電池寿命もそれほど良くなく、存在が認知されたとは言え購入層もその使われ方も限定的で、性能もしばらくフィルムカメラを追い越すことはないと思われていました。
1999年末から始まった高画素数化競争や小型化競争など、市場拡大を伴った熾烈な競争により性能は上昇、価格も下がり利便性も受けて、2005年にはフィルムカメラとデジタルカメラの販売台数が逆転、フィルムカメラからデジタルカメラへと市場が置き換わりました。