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11月5日はいいりんごの日

 

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今日は何の日?

11月5日はいいりんごの日

 

青森県が2001年に制定しました。


「いい(11)りんご(5)」の語呂合せです。

 

青森県はりんごの生産量が最も多く、全国の60%近くを生産していて、そのうちの弘前市で、全国の約20%を生産しています。

 

青森・長野の上位2県が、全国生産量のおよそ75%を占め、みかんとは対照的に冷涼な気候で育つ果樹の代表格です。

 

 

りんごは、バラ科リンゴ属の落葉高木樹。またはその果実のことです。

植物学上はセイヨウリンゴと呼びます。春、白または薄紅の花が咲きます。

 

 

スイス地方の先住民族といわれている湖棲民族の遺跡からはリンゴの化石が発見されており推定4000年前にはりんごが栽培されていたと考えられています。


ヨーロッパに広まったリンゴは、16世紀から17世紀頃にかけてヨーロッパ中部以北の各地で栽培が盛んとなり、19世紀中頃にはイギリスが大産地となりました


アメリカには、17世紀前半にヨーロッパからの移住民によってもたらされ、新種の開発や枝変わりの発見など大きな発展をとげ、以後、世界各地で栽培されている品種のほとんどはアメリカに由来するものとなっています。

 

日本へは中国から最初に持ち込まれたと推定されますが、西洋から西洋リンゴが持ち込まれると日本でも西洋リンゴの方が一般的になり、それまでの種は「和リンゴ」などと呼ばれて区別されました。


平安時代中頃の書物『和名類聚抄』には「利宇古宇(りうこう、りうごう)」としてリンゴが記述されており、これが訛って「りんご」になったと考えられています。
地域によっては「リンキ」という古名も伝わっています。


江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎の絵にその花が描かれるなど、実よりはどちらかといえば花が珍重されていたこともありましたが、およそ食用として各地域に伝承されていました。

また、仏前の供え物として多用されました。


近江国(現在の滋賀県)の戦国大名であった浅井長政は、領内の木之本の寺から届けられたリンゴに対する礼状を同寺に届けており、この書面は現存しています。


他にも、安土桃山時代の出羽国(現在の山形県)の大名であった最上義光の家臣の北楯利長が、主君の義光に鮭とリンゴを贈ったことが、義光から北楯への文書(礼状)から判明しています。


江戸時代の天明7年6月7日 (1787年7月21日)に発生した、御所千度参りと呼ばれる事件の際、京都市中に溢れ返った3万から7万人ともされる人数に対し、後桜町上皇からは3万個のリンゴが下賜配布された記録があります。


当時、権力の中枢とは言えず、裕福でもなかった皇室が即座に3万個ものリンゴを放出した記録により、基本的に食用ではなく仏事用であるとしても、大規模な栽培・集荷・流通が行われていたことがわかります。


後に和リンゴの栽培・流通は極少数となりましたが、例えば長野県上水内郡飯綱町では、わずかな農家が栽培してその姿を伝えています。


この和リンゴの実は大きさ直径3-4cm、重さは30gぐらい。熟すると赤くなり、収穫適期はお盆前です。


2003年より「彦根りんごを復活する会」が、全国に残存する和リンゴや野生種を調査し数十種類の木(数百本)を育て、収穫した果実はお盆に各地の寺社に奉納しています。


同じ滋賀県で前述の浅井長政ゆかりの木之本などでも復活保存の動きがあります。


初めて西洋リンゴが栽培された例としては、文久2年(1862年)、元越前福井藩主で幕府政事総裁職であった松平春嶽がアメリカ産のりんごの苗木を入手し、それが江戸郊外巣鴨の福井藩下屋敷にて栽培されていたと残る記録が有名です。


またそれより先、安政1年(1854年)に、アメリカからもたらされた「アッフル」が加賀藩下屋敷(板橋宿)にて栽培され、翌年に実をつけたために食用とされたことが、当時の加賀藩士の記録に残っています。


藩主(前田斉泰)から「小さな餅に塗って食べるように」と言われて近習らはそのようにしていることから、ジャムにして食したものと思われます。


これらの栽培は、当然ながら藩主直接の手によるものではなく、栽培の能力を持った家臣や屋敷近隣の農家や植木屋が関わっていました。


板橋と巣鴨は近隣であり、双方での栽培に関わった人物間のなんらかの交流や情報交換があったとも推測され、また福井藩下屋敷では接ぎ木により100本以上の樹が生えていたとされ、当時既にりんごの株分け・接ぎ木のノウハウがあったとも推測されます。


また、この福井藩下屋敷の株を、藩と直接関係のない人物が藩邸出入りの植木屋を通して入手した話が伝わることなどから、これら2箇所の藩邸だけにとどまらず、もっと広く栽培されていた可能性があります。


この両藩邸のリンゴの株の導入経路はどちらも「アメリカから」と伝わりますが、正確な入手経路や品種などは明確になっていません。


明治4年に明治政府の命を受けた北海道開拓使次官の黒田清隆は、アメリカから75品種の苗木を持ち帰り渡島国亀田郡七重村(現・北海道七飯町)の七重官園に植栽しました。


それが広がり出したのは明治7年、内務省による配布が始まってからになります。


現在の日本国内の主なリンゴ産地のほとんどは、七重官園にその起源を求めることができます。


これらの生産がようやく軌道に乗ったのは明治20年代とされ、各産地でのその間の栽培定着の苦労を推測することができます。

 

 

世界一生産量の多いりんごの「ふじ」は、1962年に青森県藤崎町で誕生した日本で最も一般的に栽培される品種で、日本国外にもさかんに輸出され、名前も日本語発音同様「Fuji」の名で親しまれています。


中国・韓国・北アメリカ・オーストラリアなどでの栽培も多く、世界的にも最も生産量の多い品種であることが2001年に米国人学者達による調査によって確認されました。
無袋で日光を十分に浴びさせて栽培したものは「サンふじ」の名で出荷されます(「サンふじ」はJA全農長野の登録商標)。


早い時期に市場に出回る早生(わせ)ふじは同じ糖度の果実であっても甘みや酸味にばらつきがあります。


見た目は赤く色づいていてもふじらしい食味がないことがあります。


ふじを品種改良をしたものは、小玉のふじ「姫ふじ(ひめふじ)」の他、「千秋」、「こうこう」、「シナノスイート」、「北斗」、「こうたろう」、「ハックナイン」など多数あります。