今日は何の日?
10月28日は速記記念日
1882年のこの日に田鎖綱紀(たくりこうき)が、自ら考案した日本初の速記法の講習会を開催しました。
そして、この講習会からプロの速記者が輩出されたため、日本速記協会が記念日に制定しました。
ちなみに、当時の人々は田鎖のことを「電筆将軍」と呼んでいたそうです。
速記とは、速記文字や速記符号とよばれる特殊な記号を用いて、言葉を簡単な符号にして、人の発言などを書き記す方法をいいます。
主に議会や法廷の発言を記録する分野や出版、ジャーナリズムなどで利用されています。
この技術の知識体系を速記法、技術を運用する方法を速記術、実際に運用する者を速記者といいます。
また、社団法人日本速記協会では文科省認定速記技能検定試験1級に合格し、申請した者を速記士に登録しています。
速記の起源に関しては定説が成立していませんが、古代ローマ以前に遡ることができるとされ、紀元前400年代の古代ギリシアの碑文に速記が発見されています。
記録としてはっきりしている有名なものとしては、紀元前63年のキケロによるカティリナ弾劾演説の記録です。
キケロの奴隷であったマルクス・トゥッリウス・ティロが記したものとされ、ティロの速記と称されます。
当時の速記者にはティロのような知的奴隷が充てられていました。
ティベリウス帝は満足な速記ができなかった速記官の指を切り落としたという記録があります。
またローマ法のなかには速記を禁止された演説を速記した者は右手を切り落とすという刑罰が定められていました。
しかし当時のものは体系化されておらず、学習に大きな困難を伴うため、次第に衰勢となりました。
その後、理論的体系的に捉えるようになり、次項以下で紹介する各国においてそれぞれの言語で考案、改良されて現在に至っています。
符号を手で書くペンショートハンドのみが長らく行なわれてきましたが、速記専用タイプライターが開発され、それを用いた機械式も普及していきます。
近年はコンピュータを用いての電子機械速記法が行なえるようになり、リアルタイム字幕放送などに使用されています。
発言の逐語記録を作成する用途を担ってきましたが、リアルタイム反訳により、聴覚障害者等を含めて、コミュニケーション手段としての機能を持つに至っています。
日本においてこの概念が登場したのは江戸時代で、1862年に出版された『英和対訳袖珍辞書』にshorthandの訳語として「語ヲ簡略ニスル書法」と、stenographyの訳語として「早書キヲスル術」と紹介されていました。
1868年の『増補西洋事情』(黒田行次郎)には「疾書術は近代の発明なり」と紹介されています。
西洋文明を積極的に導入した明治維新期、西洋の速記を日本語に導入する試みが数多く行われました。
1875年には、松島剛や畠山義成が日本語速記法の整備に着手しました。
そして1881年に「明治23年ヲ期シテ国会ヲ開設スル旨」の詔勅が発表されたことで、国会議事録記録の必要から多くの人々が速記法を考案していきました。
1882年9月16日、田鎖綱紀が『時事新報』にグラハム式を参考にした日本傍聴記録法として発表し、10月28日、日本傍聴筆記法講習会を開設し、田鎖式速記の指導を開始しました。
日本においては象徴的にこの日を以って日本速記の始まりとしており、同日を公益社団法人日本速記協会が「速記の日」と定めました。
ここで養成された速記官は、若林玵蔵や酒井昇造の名が残っています。
速記官は説法や政談、演説などを速記する練習を繰り返し、また講談や落語を速記するなど政治や文化の担い手として活躍しました。
そして1890年、帝国議会が開設され、議会速記が必要とされる時代を迎えました。
この時、一任されたのが若林玵蔵です。
帝国議会の貴族院・衆議院が議事の進行等について定めた貴族院規則、衆議院規則には「議事速記録ハ速記法ニ依リ議事ヲ記載ス」との規定が置かれ、議会開設直後の第一議会からの発言が速記記録されることになりました。
議会開設前後に整備され、また黒岩大や清沢与十らによって発展した日本速記であるが、全て田鎖式を基礎にしていました。
その中、東京高等商業に招聘されていたイギリス人教師エドワード・ガントレットが、ピットマン式を発展させてガントレット式と呼ばれる日本語速記法を考案しました。
田鎖式に比べ書きやすく、また日本語の発音体系を反映した方式であり、この方式を学んだ森上富夫は1909年に衆議院速記者に採用され、田鎖式系一色だった議会速記に新風を送り込んでいます。
そのほか基礎符号を単線にした武田式や、それを更に発展させた中根式、更にその中根式を発展させた石村式が登場しています。
導入期はイギリスの正円幾何派を中心にされたが、大正になるとドイツの草書派を参考にした方法が誕生しました。
毛利高範はドイツ留学中に目にしたオーストリアのファウルマン式を参考に毛利式を発表しています。
また、従来は民間養成を基本としていた帝国議会の速記官であるが、この頃には報道など、民間における速記への需要の高まりがあり、速記官確保が困難になってきました。
そこで政府は、1918年に速記練習生を募集し内部養成する方針に転換した。ここでは現場の速記官からのアイデアが集積され、1942年には衆議院式標準符号が定められるに至っています。