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2月18日は冥王星の日

 

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今日は何の日?

2月18日は冥王星の日

 

1930年、アメリカ・ローウェル天文台のクライド・トンボーが、1月23日と1月29日に撮影した写真との比較研究から、太陽系第9惑星・冥王星を発見しました。


内側の天王星の運行の乱れからもう1つの惑星、即ち太陽系の一番外側の惑星の存在は予言されていましたが、予想を遥かに下回る15等星という暗さのため、発見が遅くなりました。


その暗さから、ギリシア神話の冥府の神に因みプルートと名附けられました。


しかし、2006年8月24日国際天文学連合により、冥王星は準惑星と再分類し直されました。

 

 

1930年、天文学者クライド・トンボーはローウェル天文台で第9惑星を探すプロジェクトに取り組んでいました。


トンボーは、当時最新の技術であった天体写真を用い、空の同じ区域の写真を数週間の間隔を空けて2枚撮影して、その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行いました。


撮影した膨大な写真を丹念に精査した結果、トンボーは1930年2月18日に、同年1月23日と1月29日に撮影された写真乾板の間で動いていると思われる天体を見つけました。


それだけでなく1月20日の写真も、質は悪かったが動きを確認するのには役立ちました。


ローウェル天文台はさらに確証的な写真を得るよう努力したあと、発見の報を1930年3月13日にハーバード大学天文台へ電報で送りました。


後に冥王星の写真は1915年3月19日まで遡って見つかりました。


このような経緯から、発見日は一般に1930年2月18日とされていますが、小惑星センターに登録された一覧上では発見日は同年1月23日とされています。

 

 

冥王星が発見されるまでの歴史は、海王星の発見および天王星の存在と密接に結びついています。


1840年代、ユルバン・ルヴェリエとジョン・クーチ・アダムズはニュートン力学を用いて、天王星の軌道における摂動の分析から、当時未発見の惑星だった海王星の位置を正確に予測しました。


摂動は他の惑星から重力で引かれることで起こるということが理論化され、ヨハン・ゴットフリート・ガレが海王星を1846年9月23日に発見しました。

 

天文学者たちは19世紀後半の海王星の観測から、天王星の軌道が海王星に乱されていたのと同じように、海王星の軌道もまた他の未発見の惑星(「惑星X」)によって乱されていると推測し始めました。


1909年までに、ウィリアム・ヘンリー・ピッカリングとパーシヴァル・ローウェルは、そのような惑星が存在する可能性のある天球座標をいくつか提唱しました。


1911年5月には、インド人の天文学者ヴェンカテシュ・ケタカルによる、未発見の惑星の位置を予測した計算がフランス天文学協会の会報で公表されました。

 

 

パーシヴァル・ローウェルは冥王星の発見に関して重大な影響がありました。


1905年、ローウェル天文台(ローウェルが1894年に設立しました)は、存在するかもしれない第9惑星を捜索する一大プロジェクトを開始しました。プロジェクトはローウェルが1916年に死去するまでの11年間続けられました。


ローウェルの死後、彼の遺産である天文台を巡るローウェルの妻との10年にも及ぶ法廷闘争によって、惑星Xの探索は1929年に再開されるまでの間一度も実施されませんでした。


1929年に当時の天文台長ヴェスト・スライファーがトンボーにこの仕事を預け、1930年の発見に至りました。

 

皮肉にも、捜索のきっかけとなった海王星の軌道の摂動の原因となるには、冥王星はあまりにも小さすぎました。


19世紀に天文学者が観測した海王星の軌道の計算との食い違いは、海王星の質量の見積もりが正確でなかったためのものでした。


いったんそれが分かると、冥王星が非常に暗く、望遠鏡で円盤状に見えないことから、冥王星はローウェルの考えた惑星Xであるという考えに疑問の目が向けられました。


ローウェルは1915年に惑星Xの位置を予測しており、これは当時の冥王星の実際の位置にかなり近いものでした。


しかし、アーネスト・ウィリアム・ブラウンはほとんど即座にこれは偶然の一致だと結論付け、この見方は今日でも支持されています。


従って、冥王星がピッカリング、ローウェル、ケタカルの予測した領域の近くにあったことがただの偶然に過ぎないことを考慮すると、トンボーが冥王星を発見したことはさらに驚くべきことになります。

 

 

発見された新天体を命名する権利は、ローウェル天文台と所長のスライファーにありました。


名前の提案は世界中から殺到すると考えられ、トンボーは他の誰かに提案される前に早く新天体の名前を提案するようにスライファーをせきたてました。


ローウェルの妻コンスタンスは、「ゼウス」、次いで「パーシヴァル」、さらに「コンスタンス」を提案しましたが、どれも支持は得られませんでした。

 

「プルート」という名前を最初に提案したのは、イングランド、オックスフォード出身で当時11歳の少女ヴェネチア・バーニーでした。


天文学と同じぐらいローマ神話とギリシア神話にも興味があった彼女は、オックスフォード大学のボドレアン図書館で以前司書をしていた祖父ファルコナー・マダンとの会話の中で、ギリシア神話のハデスに対応するこの名前「プルート」を選び、それを提案しました。


プルート(プルートー)とはローマ神話に登場する冥府の王です。マダンはこの提案をハーバート・ターナー教授に伝え、ターナーはこの提案をさらにアメリカにいた同僚に電報で送りました。

 

1930年3月24日、ローウェル天文台のメンバーにより、ミネルヴァ、クロノス、プルートの3つの候補への投票が行われました。


同じ名前の小惑星があることが指摘されるまではミネルヴァが最有力と思われましたが、最終的にプルートが満場一致で選ばれ、正式に「プルート」と命名されました。


「プルート(Pluto)」の最初の二文字がパーシヴァル・ローウェル (Percival Lowell) のイニシャルであることもプルートに有利に働きました。この名前は1930年5月1日にローウェル天文台から公表されました。

 

 

日本語名の「冥王星」は、外来語から翻訳した名称ではなく日本人の野尻抱影が提案した名称です。


彼はこの名称を「幽王星」というもう1つの候補とともに雑誌科学画報の1930年10月号に紹介しました。


この名称は京都天文台ではすぐに採用されましたが、東京天文台(現在の国立天文台)では英語のままの「プルートー」が用いられました(当時、東京天文台と京都天文台は異なる用語を用いていることがしばしばありました)。東京天文台が「冥王星」を採用したのは太平洋戦争中に外来語(カタカナ語)を禁止した1943年のことでした。

 

 

1930年に発見されて以来、「太陽系の9番目の惑星であり、外惑星の一つである」とされてきました。


しかし、1992年に冥王星以外の外縁天体が初めて発見されて以降、冥王星と似た大きさの外縁天体が続々と発見され始めました。


その中でも2003年に撮影された写真の中から2005年に発見された2003 UB313は冥王星よりわずかに大きいと考えられました。

 


このような太陽系研究の進展により、太陽系の研究者の間などで冥王星を惑星とみなすことへの疑問の声が広まりました。


そして、発見から76年後の2006年8月に開かれた国際天文学連合 (IAU) 総会で、それまで明確でなかった惑星の定義を定めるとともに、準惑星という分類を新たに設けることが採択されました。


この結果、冥王星はケレス、2003 UB313(分類と同時にエリスと命名)などとともに準惑星に分類されました。


また、冥王星を外縁天体の「新しい下位分類のプロトタイプ」とすることも決定され、2008年6月にその分類の名称を「プルトイド」とすることが確定しました(日本学術会議では2007年4月9日の対外報告(第一報告)において「冥王星型天体」という日本語名称を推奨していました)。


再分類された後、冥王星は小惑星の一覧に記載され、小惑星番号134340番が与えられました。

 

これらの結果として冥王星は、「太陽系外縁天体として最初に発見されたもの」という位置づけとなりました。