今日は何の日?
2月17日はツタンカーメン王墓発掘の日
1925年、ハワード・カーターが、エジプトの王家の谷でツタンカーメン王のミイラを発見しました。
純金製の棺桶とマスクなど3000点以上の品々が埋葬されていましたが、この発掘後、スポンサーをはじめ多数の関係者が次々に謎の死を遂げています。
ツタンカーメン(トゥトアンクアムン、Tutankhamun)は、古代エジプト第18王朝のファラオ。より厳密な表記ではトゥト・アンク・アメン(Tut-ankh-amen)です。
父アクエンアテン(アメンホテプ4世)の生存中に、唯一神アテン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(Tutankhaten、「アテンの生ける似姿」の意)と名乗っていました。
アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神であるアムン=ラー(アメン=ラー)の信仰を復活させ、トゥトアンクアムン(「アムン神の生ける似姿」の意)と改名しました。
また、首都をアマルナからメンフィス、テーベに戻しました。
在位中、王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったといわれています。その後若くして死に、王家の谷に葬られました。
ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになります(但し、アイは王族の1人)。
ツタンカーメンはアクエンアテンの政策を大幅に覆しましたが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったことがわかっており、アメン信仰復活やその死について様々な推測が語られ、歴史のミステリーとされています。
1978年にアメリカの研究チームが調べた骨のサンプルから、血液型はA2型のMN型であることが分かっています。
2005年1月にはエジプトの研究チームによってミイラの調査が行われました。
さらに2009年のエジプトチームの再調査では、骨のDNAサンプルからケーラー病を患っていたことが判明しています。
ツタンカーメンはアクエンアテン(アメンホテプ4世)とその姉妹の1人との間に生まれ、骨折にマラリア(熱帯熱型)が重なって死亡した可能性が高いことが、エジプト考古学チームによるDNA鑑定やコンピューター断層撮影装置 (CT) の調査で分かった、と2010年2月、米医学誌「ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション」が発表しました。
腐骨や内反足を患い、転倒して足を骨折し、マラリアが命取りになったといいます。また歩くのに杖をついていた虚弱な王だったとしています。
埋葬品の130本もの杖は全て実際に使用されていたと思われる磨り減った跡があります。
虚弱な身ではありましたが、ヌビアの反乱を収めたりヒッタイトとの戦いに勝利するなど、王としての職務はこなしていたようです。
アクエンアテンとネフェルティティの娘であるアンケセナーメンとツタンカーメンの婚姻は異母兄弟姉妹婚と推測されています。
年齢差は不明ですが、アンケセナーメンは父親との子供を生んだ経験があるということで、7歳くらいツタンカーメンより年上だったと推測されています。
2011年、スイスの研究機関iGENEAによりツタンカーメンの属するY染色体ハプログループが判明したと発表され、R1b1a2-M269という現在の西ヨーロッパの住民に見られる父系血統で、現在のエジプト人にはほとんど見られないハプロタイプであることが分かりました。
生まれつき爪先が変形しており、左足の人差し指の一部がなく左足の骨の一部も壊死していて、足が不自由でした。
エジプトの都市ギザに狩猟用の別荘を建てています。
ツタンカーメンには姉が6人いました。
王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、1922年11月4日にイギリスのカーナヴォン卿の支援を受けた考古学者ハワード・カーターにより発見、発掘されました。
ツタンカーメンは王墓としてはきわめて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けませんでした(実際には宝石の一部などが抜き取られていましたが、副葬品自体は無事でした)、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土しました。
その発掘は世界を大いに驚かせました。発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたという流言が世に広まり、それをきっかけとして『ファラオの呪い』という伝説が高まりました。またそれに関する謎解きも盛んに行われるようになりました。
また、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから、ツタンカーメンが暗殺されたとする説を裏付けるものかと注目されました。
しかし、いくつかの傷はミイラを文化財として大事にしない20世紀前半当時の風潮のために発掘時につけられたものであったことが明らかになっています。
ツタンカーメンのミイラと、黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品はエジプトに残されました。
そして、黄金のマスクや純金製の第3人型棺をはじめとする副葬品の大半は、現在はカイロにあるエジプト考古学博物館に収蔵されて観光客に公開されています。
またツタンカーメンの墓には出産直後か死産かと見られる2体の子供のミイラも一緒に葬られており、大きい方はツタンカーメンの娘であるとDNA鑑定されました。
小さい方は防腐剤の影響により鑑定不能。ハワード・カーターが発見時は保存状態は良好でしたが、かなり悪くなっています。
その他、ツタンカーメンの墓からはエンドウ豆も発見されています。
ツタンカーメン王墓が発掘された際に出土したもののリストの中に死後の備えとして入れられた食物の中に穀物の入った壷があり、その中に豆類が混じっていました。
使った形跡のあるチャリオット6台、弓50本以上、矢数百本、杖130本以上、ヌビアが献上した盾、熱を下げるコリアンダーなど数十種類の種も発見されました。
2016年のTBSの番組の古代エジプト3300年目の真実においてニコラスリーブスの説により北の壁画などの向こう側に隠し部屋が存在し、ツタンカーメンの義母(ネフェルティティの娘のアンケセナーメンとツタンカーメンが婚姻して義理親子関係となる)のネフェルティティが埋葬されているという内容でした。
番組中では、ネフェルティティの父のアイが(ネフェルティティが先に死んだため)娘を思って墓を盗掘されないように偽壁で覆い、ツタンカーメンの墓をおとりにして手前に造成させたとする可能性を鈴木亮平が言及し河江肖剰が可能性として最も高いと同意する内容でした。
実際、ツタンカーメンの墓はハワードカーターが1922年に20世紀最大の発見する際にも第一の入口の壁、途中のがれきの山、第二の刻印の壁、隠し部屋と何重にも盗掘防止とされる壁が存在しました。
ツタンカーメンの墓の直上にラメセス6世(ツタンカーメンは第18王朝、ラメセス6世は第20王朝)の墓が存在する、ラメセス6世はツタンカーメンより後に在位したのでツタンカーメンの後に上にラメセス6世の墓が造成されています。
しかし発見順はラメセス6世の墓が先でした。 また、ニコラスリーブスの説による、ネフェルティティの墓であるという根拠については、女王の墓の特徴である右曲がりであること(番組中では、例としてハトシェプスト女王の断崖墓KV60を挙げています)、ハトシェプストはネフェルティティより前に亡くなっており伝統的に右曲がりとする例である、また夫婦の像でも女王は正面を向かって右側と決まっている旨を紹介しました。
ツタンカーメンのミイラは防腐処理の際の樹脂が化学反応によって変質したため保存状態はかなり劣悪でした。しかも、発見後、ミイラの包帯が解かれてしまったことも保存状態の悪化に拍車をかけることとなりました。包帯を解く際にも、多くの外傷がミイラに付けられ、さらには脊椎が切断され性器までもが消失しました。
2005年1月、CTスキャン撮影などによってミイラの調査が行われ、棺からミイラが取り出されましたが、この時の貴重なミイラの映像は国際的に注目されました。
調査により死亡推定年齢が19歳であることが明らかになりました。身長は165cm(古代エジプトの成人男性の平均とほぼ同じ)で、体格はかなり華奢であることがわかりました。
死につながる傷が特定されたものの、事故死説か他殺説かの論争に決着をつけることまではできませんでした。
なお、この調査の際に前述の消失していた性器が、無事に再発見されています。
この調査は、ミイラの保存状態が極めて劣悪になっており、従来どおり棺内での保存ではミイラの状態維持は出来ないと結論付けられました。
その結果、2007年11月、初めてミイラが一般公開されました。
王墓内の黄金の石棺から、同じく王墓内に設けられた気温や湿度を厳重に調整できるプレクシグラス(軽く透明な合成樹脂)製の展示ケースの中に移され、保存状態が比較的良い顔と足先の部分を覆っていた布は取り外されました。
その後、現在もミイラはプレクシグラス製ケース内にて保存されています。
2010年2月、DNA鑑定によりアメンホテプ4世のミイラが特定され、アメンホテプ4世がツタンカーメンの父であることがほぼ断定されました。
またアメンホテプ3世の王妃ティイとツタンカーメンの母のミイラ(ともにアメンホテプ2世王墓〈KV35〉で発見)も身元が判明、ツタンカーメンの母はアメンホテプ4世の同父同母の姉妹であることも明らかになりました。