こうですか?わかりません

日々の出来事や好きな事、LINEマンガにアップするマンガなど書いてます。

2月14日はバレンタインデー

 

f:id:yuru-ppo:20180213201720p:plain

 

今日は何の日?

2月14日はバレンタインデー

 

バレンタインデー、または、聖バレンタインデー(セイントバレンタインデー)は、2月14日に祝われ、世界各地でカップルの愛の誓いの日とされます。


元々269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日だと、主に西方教会の広がる地域において伝えられていました。

 

 

バレンタインデーの歴史は、ローマ帝国の時代までさかのぼります。

 

当時、ローマでは、2月14日は女神・ユーノーの祝日でした。ユーノーはすべての神々の女王であり、家庭と結婚の神でもありました。


翌2月15日は、豊年を祈願する(清めの祭りでもあります)ルペルカリア祭の始まる日でした。当時若い男たちと娘たちは生活が別でした。


祭りの前日、娘たちは紙に名前を書いた札を桶の中に入れることになっていました。


翌日、男たちは桶から札を1枚ひきました。ひいた男と札の名の娘は、祭りの間パートナーとして一緒にいることと定められていました。


そして多くのパートナーたちはそのまま恋に落ち、そして結婚しました。

 

ローマ帝国皇帝・クラウディウス2世は、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由で、兵士たちの婚姻を禁止したと言われています。


キリスト教の司祭だったウァレンティヌス(バレンタイン)は、婚姻を禁止されて嘆き悲しむ兵士たちを憐れみ、彼らのために内緒で結婚式を行っていましたが、やがてその噂が皇帝の耳に入り、怒った皇帝は二度とそのような行為をしないようウァレンティヌスに命令しました。


しかし、ウァレンティヌスは毅然として皇帝の命令に屈しなかったため、最終的に彼は処刑されたとされています。


彼の処刑の日は、ユーノーの祭日であり、ルペルカリア祭の前日である2月14日があえて選ばれました。


ウァレンティヌスはルペルカリア祭に捧げる生贄とされたといいます。


このためキリスト教徒にとっても、この日は祭日となり、恋人たちの日となったというのが一般論です。

 

 

上述の逸話には歴史的背景の説明が必要です。初期のローマ教会は、当時の祭事から異教の要素を排除しようと努力した跡がみられます。


ルペルカリア祭は排除すべきでしたが、ただ禁止しても反発を招くだけであったため、教会にはこの祭りに何かキリスト教に由来する理由をつける必要がありました。


そこで兵士の結婚のために殉教したとされるバレンタイン司教の助けを借りることにしたと考えられいます。


こうしてキリスト教以前からあったルペルカリア祭は、バレンタイン由来の祭りであると解釈を変更され、祭りはその後も続きました。


前述のくじ引きでパートナーを選ぶ話も、ローマの宗教行事は野蛮であるという印象を与えるために初期キリスト教会によって創作されたものである可能性があります。

 

 

カトリック教会においては、第2バチカン公会議後の典礼改革で、史実の上で実在が明らかでない聖人たちが典礼暦から整理された際に、2月14日のウァレンティヌスの記念日が取り除かれました。


このため現在では公式には祝日として祝われていません。事実、聖バレンタインに関する伝説は複数あり、ローマ殉教録によると、この日に同名の司教が殉教しています。


複数の伝説や奇跡などが重なり、細部が異なって伝えられているとされます。

 

 

日本でバレンタインデーは、1958年ころから流行しました。ただし、その内容は日本独自の発展を遂げたものとなっています。


戦前に来日した外国人によって一部行われ、第二次世界大戦後まもなく、流通業界や製菓業界によって販売促進のために普及が試みられましたが、日本社会に定着したのは、1970年代後半でした。


「女性が男性に対して、親愛の情を込めてチョコレートを贈与する」という「日本型バレンタインデー」の様式が成立したのもこのころでした。


なお、バレンタインデーにチョコレートを渡すのがいいのではと最初に考案して実践したのは、一説に大田区の製菓会社メリーチョコレートカムパニーの原邦生であるとされています。


しかし、原邦生が行ったとされるイベントは昭和33年であるのに対し、神戸のモロゾフ製菓が20年以上前の昭和11年2月12日に外国人向け英字新聞『ザ・ジャパン・アドバタイザー』に、「あなたのバレンタイン(=愛しい方)にチョコレートを贈りましょう」というコピーの広告を既に掲載しており、モロゾフ製菓がバレンタインチョコを最初に考案した仕掛け人であるとされる説が最有力です。


そして日本チョコレート・ココア協会によると、1992年に聖バレンタイン殉教の地イタリア・テルニ市から神戸市に愛の像が送られており、その理由は、神戸が日本のバレンタインデー発祥の地と分かったからとの事です。

 

現代日本社会におけるバレンタインデー文化の、起源、普及過程、社会的機能、歴史的意義などについては、民俗学、社会学、宗教学、歴史学(文化史、商業史)の各分野から研究されるべき事項ですが、バレンタインデーに関するまとまった研究は存在しません。

 

 

日本では、女性がアプローチしたい意中の男性に愛情の告白として、本命チョコを贈る習慣があります。

 

西欧・米国でも、恋人やお世話になった人に『チョコレート』を贈ることはありますが、決してチョコレートに限定されているわけではなく、またバレンタインデーに限ったことでもありません。


女性から男性へ贈るのが殆どという点と、贈る物の多くが『チョコレートに限定されている』という点は、日本のバレンタインデーの大きな特徴です。


しかし最近では、本命チョコにこだわらず、クッキーやケーキ、マフラーなどを贈る人もいます。

 

また、「恋人までは行かないが、友人として」贈る「義理チョコ」、同性(主に女性)間で贈り合ったりする「友チョコ」、男性が女性に渡す「逆チョコ」、自分で買って食べる「自己チョコ」、男性が男友達に送り合ったりする「強敵(とも)チョコ」というものも見られます。

 

「日本型バレンタインデー」の特徴を整理すると、以下の3点となります。

贈答品にチョコレートが重視される点
女性から男性へ一方通行的贈答である点
(女性の)愛情表明の機会だと認識されている点
このほか、職場における贈答習慣が強い点や、キリスト教との直接的関連はほとんど意識されていない点も日本型バレンタインデーの特徴です。

 

 

デパート各店がバレンタインデー普及に努めていたが、なかなか定着せず、1968年をピークに客足は減少し、「日本での定着は難しい」との見方もありました。


しかし、オイルショック(1973年)に見舞われ、高度経済成長が終焉した1970年代前半頃になると、チョコレートの売上が急増しました。

オイルショックによる不況にあえいでいた小売業界がより積極的にマーケティングを行ったとされ、1970年代は日本の資本主義がほぼ完成し、成熟した消費社会になった時期とも重なります。


バレンタインデーにチョコレートを贈るというのは、小学校高学年から高校生までの学生層から広まったといいます。1980年代後半頃には夫や父親、義父に贈る主婦層にも普及しました。

 

前節で述べたように、当初は贈答品はチョコレートに限られておらず、誰とも交際していない女子から意中の男子へという形でもありませんでした。


バレンタインデー普及には商業活動が一役買ったことは間違いないが、日本社会に受け入れられやすかった要素とそうでなかった要素があることが指摘されています。


現在、一般に「バレンタインデーはチョコレート業界の陰謀」と認識されていることとは裏腹に、バレンタインデー定着の過程には、小学校高学年から高校生の主導的な選択があったことが指摘されています。

 

 

1970年代後半頃に、女子が男子に親愛の情を込めて本命チョコを贈るという「日本型バレンタインデー」が、日本の社会に定着すると、さらに日本独自の習慣が登場しました。


1980年前半に登場したホワイトデーと義理チョコです。ホワイトデーの起源については、福岡県の和菓子屋・石村萬盛堂のキャンペーンと、全国飴菓子工業協同組合の構想が注目されています。


1977年に石村萬盛堂は、バレンタインデーの返礼としてマシュマロデーを開始しました。これは社長が女性雑誌の投稿欄を見て思いついたものだといいます。


1979年には他の菓子店と協同で「ホワイトデー」という名称を用いたとされています。

 

一方、全国飴菓子工業協同組合の主張によると、1978年6月の組合の総会で、「ホワイトデーキャンペーン」の実施が決定され、1980年に第1回「愛にこたえるホワイトデー」キャンペーンが行われたといいます。


そして2回目の1981年には「好きな女の子にキャンデーを贈ろう」というキャッチフレーズが添えられました。


1984年の第5回キャンペーンには各地で品不足になるほどの盛況となり、同組合では、この1984年をホワイトデー定着の年としています。