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2月3日は節分

 

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今日は何の日?

2月3日は節分

 

節分は、一般的には「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆(煎り大豆)を撒いて、年齢の数だけ(もしくは1つ多く)豆を食べる厄除けを行います。

また、邪気除けの柊鰯などを飾る。これらは、地方や神社などによって異なってきます。

 

節分は、雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことです。節分とは「季節を分ける」ことも意味しています。


江戸時代以降は特に立春の前日を指す場合が多いです。この場合、節切月日の大晦日にあたります。

 

 

また、節分に恵方を向いて無言で食すると縁起が良いとされる巻寿司の恵方巻があります。


恵方巻は、商都大阪発祥の風習といわれていますが、1980年代まで大阪市内でも知名度は無くその起源の定説は未だ存在せず、1932年の鮨業界広告内容では花柳界起源説、1940年の京都の古習慣・巳鮨(みずし(御厨子(みずし)は内膳司御厨子所の女官で水仕(みずし)は下女))を引き合いにした大阪鮨商組合の広告チラシを配布した大阪の鮨店が1969年に篠田統へ話した"新こうこう(しんこ=上新粉の餅、こぉこ=新香)"巻き寿司大正時代花街起源説の伝聞が史実の様に取り扱われています。


大阪ことばの"巻(まき)"は小田巻蒸しや玉子巻・巻き寿司、京ことばや船場ことばではちまきの略であること、ちまきは節分で蒔かれていたこともあり、形状を示唆しているのは広告チラシの女児のイラストのみで細・中・太巻等も明確ではありません。


「恵方巻」という名称は1989年セブン-イレブン広島市中区舟入店野田靜眞氏が大阪には節分に太巻き寿司を食べる風習があると聴いて仕掛けたことにより1998年全国へ広がり、2000年代以降に急速に広まりました。

 

それ以前に「恵方巻」と呼ばれていたという文献類は見つかっていません。その他には「幸運巻寿司」、「恵方寿司」、「招福巻」などとも呼びます。

 

 


季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われます。

 

宮中での年中行事であり、『延喜式』では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていました。

 

「土牛童子」ともいわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去されました。


『延喜式』によれば、土偶(土人形の意)も土牛も、各門での大きさは同じで、土偶は高さ2尺で、方1尺5寸・厚さ2寸の板に立てます。土牛は高さ2尺・長さ3尺で、長さ3尺5寸・広さ1尺5寸・厚さ2寸の板に立てます。


陽明門および待賢門には、青色のものを、美福門および朱雀門には、赤色のものを、郁芳門、皇嘉門、殷富門および達智門には、黄色のものを、藻壁門および談天門には、白色のものを、安嘉門および偉鑒門には、黒色のものを、立てます。


『公事根源』十二月には、「青色は春の色ひんかしにたつ赤色は夏のいろ南にたつ白色は秋のいろ西にたつ黒色は冬の色北にたつ四方の門にまた黄色の土牛をたてくはふるは中央土のいろなり木火金水は土ははなれぬ理有」とあります。

 

これは、平安時代頃から行われている「追儺」から生まれました。

 

『続日本紀』慶雲三年十二月の条によると706年にこの追儺が始まり(「是年天下諸国疫疾百姓多死始作土牛大儺」とあります)、室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行きました。

 

『臥雲日件録(瑞渓周鳳)』によると、1447年に「鬼外福内」を唱えたと記されています。

 

近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになりました。

 

 

現在は毎年2月3日ですが、これは1985年から2024年ごろまでに限ったことであり、常にそうではありません。

 

1984年までは、4年に1度の閏年に2月4日でした。2025年から(2021年からになる可能性あり)は閏年の翌年に2月2日になります。

 

数十年のスケールで徐々に前倒しになってきますが、4で割り切れても閏年とならない1900年、2100年、2200年……の翌年に1日遅れて帳消しとなります。

 

 

邪気を追い払うために、古くから豆撒きの行事が執り行われています。


宇多天皇の時代に、鞍馬山の鬼が出て来て都を荒らすのを、祈祷をし鬼の穴を封じて、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたという故事伝説が始まりと言われます。


豆は、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。

 

豆を撒き、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べます。また、自分の年の数の1つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないという習わしがあるところもあります。初期においては豆は後方に撒くこともあったと言います。

 

 

豆をまく際には掛け声をかけます。1447年の『臥雲日件録』には「散熬豆因唱鬼外福内」とあるように、掛け声は通常「鬼は外、福は内」でした。しかし、地域や神社によって異なる場合があります。


鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方避けの寺社では「鬼は外」ではなく「鬼も内(鬼は内)」としています。


奈良県吉野町の金峯山寺で行われる節分会では役行者が鬼を改心させて弟子にした故事から「福は内、鬼も内」としています。


また新宗教の大本は鬼神を「艮の金神(国常立尊)」と解釈しているので、同じく「鬼は内」としています。


「鬼」の付く姓(比較的少数ですが「鬼塚」、「鬼頭」など)の家庭もしくは鬼が付く地名の地域では「鬼は内」の掛け声が多いといいます。


山形市の鳥海月山両所宮でも鬼の字が姓に含まれる世帯もあることから、掛け声を「鬼は外、福は内」だけでなく「福は内、鬼も内」としています。


大名九鬼家の領地でも、藩主に敬意を表して「鬼は内」としています。


また、丹羽氏が藩主であった旧二本松藩領内の一部では「鬼は外」と言うと「おにわそと」転じて「お丹羽、外」となるため、それを避けるために「鬼、外」と言う所があります。

 

使用する豆は、お祓いを行った炒った大豆(炒り豆)です。豆を神棚に供えてから撒く地方もあります。


炒り豆を使用するのは、旧年の厄災を負って払い捨てられるものであるため、撒いた豆から芽が出ては不都合であったためであるといいます。


北海道・東北・北陸・南九州の家庭では 落花生を撒き、寺社や地域によっては餅や菓子、みかん等を投げる場合もありますが、これは「落花生は大豆より拾い易く地面に落ちても実が汚れない」という合理性から独自の豆撒きとなりました。

 

かつては、豆のほかに、米、麦、かちぐり、炭なども使用されたといいます。


豆まきとなったのは、五穀の中でも収穫量も多く、鬼を追い払うときにぶつかって立てる音や粒の大きさが適当だったからとする説もありますが定かではありません。

 

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