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1月28日はダンスパーティーの日

 

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今日は何の日?

1月28日はダンスパーティーの日

 

1883年、明治政府が14万5000円(現在の価値で約5億5000万円)をかけて建設した迎賓館「鹿鳴館(ろくめいかん)」が、この日にオープンしました。


煉瓦造りの2階建ての美しい建物は、英国人ジョサイア・コンドルの建設によるもので、外国貴賓の接待や社交の場として毎夜のごとく舞踏会が開催されました。

 

 

鹿鳴館は、国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として明治政府によって建てられた社交場です。

 

鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼びます。

 

当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在でもありました。

 

建物は後に華族会館となり、1940年に取壊されました。

 

 
計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨です。

 

当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であしたが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が前近代的で残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していました。

 

そのため井上は欧化政策を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考えました。

 

それまでは国賓の迎賓館として準備された建物はなく、1870年、急遽改修した浜離宮の延遼館かあるいは港区三田の蜂須賀侯爵邸などを借用していました。

 

鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣のNBF日比谷ビル(旧 大和生命ビル)の地)に決まり、1880年に着手し、途中規模変更(拡大)があり3年がかりで1883年7月に落成しました。

 

設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドルで、施工は土木用達組が担当しました(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織。大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流です)。

 

煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になり、バーやビリヤードも設備されていました。

 

 

同館落成の1883年より1887年までの時期がいわゆる鹿鳴館時代です。

 

1883年11月28日、1200名を招待して落成の祝宴が行われました。

 

「鹿鳴」は『詩経』小雅にある「鹿鳴の詩」に由来し、来客をもてなすことを表す語で、中井櫻洲が名付けました。祝宴当日は井上馨の誕生日でした。

 

以後鹿鳴館では国賓の接待や舞踏会ばかりでなく、天長節(11月3日、明治天皇誕生日)の祝賀会行事をはじめ数々の国内行事も行われるようになり、皇族や上流婦人の慈善バザーも重要な催しでした。

 

しかし当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でもその大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るすべもなく、その物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものでした。

 

本人たちは真剣勝負でしたが、試行するも錯誤ばかりが目立ちました。

 

西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していました。

 

また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ、さらに高等女学校の生徒も動員されていたといいます。

 

一方、欧化政策を批判する国粋主義者は鹿鳴館での行事を「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」などとして非難の声を挙げるようになっていました。

 

井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに条約改正案の内容(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こりました。

 

面目を失した井上は1887年9月に外務大臣を辞任し、井上の辞任とともに鹿鳴館時代は幕を下ろすことになりました(ただし、鹿鳴館ではその後も数年間にわたって天長節夜会が開催されていました)。

 

 

1890年、宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用。1894年6月20日の明治東京地震で被災した後、土地・建物が華族会館に払い下げられました。1898年にコンドルが改修工事を行い、外観が変更されました。

 

1927年、華族会館の敷地が日本徴兵保険会社に売却されました。

 

敷地に1930年に保険会社のビル(3階建)が新築されましたが、旧鹿鳴館の建物は残されていました(内国貯金銀行も建物を使用しました)。

 

 

旧鹿鳴館が取り壊されたのは1940年です。

 

取り壊し計画の話が広まった時、これを惜しんだ早大教授で商工省参与官の喜多壮一郎が、幣原喜重郎商相に保存を提議し、9日に院内大臣室で岸信介次官、山本会計局長と協議。結局、取り壊し計画を止めることができなかったため、跡地に幣原のポケットマネーで「史蹟鹿鳴館跡」の記念碑を建てることを約束させたといいます。しかしこの約束も守られることはありませんでした。