こうですか?わかりません

日々の出来事や好きな事、LINEマンガにアップするマンガなど書いてます。

1月3日はひとみの日

 

f:id:yuru-ppo:20180102043525p:plain

 

今日は何の日?

1月3日はひとみの日

 

めがね、コンタクトレンズの業界が制定しました。


瞳をいつまでも美しくということで、「1(ひと)3(み)」の語呂合わせです。


ところでレンズの歴史は古く、古代ローマの皇帝ネロが闘技場での観戦用に、エメラルドのレンズを用いていたといいます。

 


瞳孔は虹彩によって周囲を囲まれた孔です。瞳孔は水晶体の前方に位置します。

 

ヒトの瞳孔はほぼ正円形です。正常なヒトでは、両眼の瞳孔の大きさは、ほぼ等しいそうです。

 

物体側から見た瞳孔の像は、角膜による屈折を受けた瞳孔の虚像です。この像を入射瞳と呼びます。入射瞳は実際の瞳孔よりも大きく見えます。

 

瞳孔径を計測するとき、入射瞳の径を瞳孔径として記載することがあります。

 

瞳孔は黒く見えます。これは、瞳孔よりも後方にある網膜色素上皮が光を反射しないためです。

 

つまり、網膜色素上皮は光を吸収するため、瞳孔を通じて網膜へ入射した光が反射することはありません。

 

 


レンズ(拡大鏡など)を使って物を(拡大して)見ることに関しては、紀元前8世紀の古代エジプトのヒエログリフに「単純なガラス製レンズ」を表す絵文字があります。


レンズで拡大して見ることについての具体的な記録としては、紀元1世紀皇帝ネロの家庭教師だった小セネカが「文字がどんなに小さくて不明瞭でも、水を満たした球形のガラス器やグラスを通せば、拡大してはっきり見ることができる」と書いています。


ネロ自身もエメラルドを矯正レンズ代わりにして剣闘士の戦いを観戦したと言われています。

 

矯正レンズは9世紀のアッバース・イブン・フィルナスが使っていたと言われており、彼は非常に透明なガラスの製造方法を考案しました。


そのようなガラスを半球形にして磨き、文字を拡大して見るのに用いたものをリーディングストーンといいました。


凸レンズを使った拡大鏡が初めて記録されたのは、1021年にイブン・アル・ハイサムが出版した『Kitab al-Manazir』(光学の書)です。


これが12世紀にラテン語に翻訳され、それに基づいて13世紀イタリアで眼鏡が発明されることになりました。

 

ロバート・グロステストが1235年より前に書いたとされる論文 De iride ("On the

Rainbow") には「遠距離から小さな文字を読む」ために光学を用いることへの言及があります。


1262年、ロジャー・ベーコンもレンズが物を拡大して見せる特性があることを記述しています。

 

サングラスの原型は煙水晶の平らな板を使ったもので、中国で裁判官が視線を隠すために使いました。


12世紀かそれ以前から使われていたとされています。


ただし、レンズにして矯正するという発想はありませんでした。

 

 

1284年ごろのイタリアで、Salvino D'Armate が世界初の眼鏡を発明したとされています。


絵に眼鏡が描かれたのは Tomaso da Modena の1352年の肖像画が最初で、枢機卿 Hugh de Provence が写字室で書物を読んでいる姿が描かれています。


また、1403年に作られたドイツ Bad Wildungen の教会の祭壇飾りに眼鏡が描かれています。

 

眼鏡の発明者が誰なのかについては、諸説あります。


1676年、ピサ大学の医学の教授だったフランチェスコ・レディは、1289年に書かれた手稿を持っており、それには「最近発明された眼鏡がなかったら読み書きができなくて困っていただろう」と書かれていると記しています。


彼はまた、1306年2月23日水曜日朝にフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェーラ教会において行われた説教の記録も参照しています。


その説教を行ったのはドミニコ会の修道士フラ・ジョルダーノ・ダ・リヴァルトで、眼鏡について「この20年以内の発明である」「発明者と話をしたことがある」と述べたといいます。


これを根拠として、レディはもう1人のドミニコ会修道士でピサのフラ・アレッサンドロ・ダ・スピナが発明者だとしました。


そして、実際には真の発明者が別にいましたがその人物はそれを秘密にし、ダ・スピナが再発明したと推測しています。レディはダ・スピナの死亡記録も参照しています。

 

発明の正確な時期と発明者は今後もずっと探求されると思われますが、眼鏡が1280年から1300年の間にイタリアで発明されたことはほぼ確実です。


初期の眼鏡は凸レンズを使っており、遠視と老視を矯正できましたが、もっぱら老眼に使われていました。

 

中世において眼鏡は知識と教養の象徴であり、聖人の肖像には、たとえ眼鏡発明以前の人物であっても、眼鏡がしばしば描き入れられました(アウグスティヌスなど)。

 

近視を凹レンズで矯正できることを発見したのは、ニコラウス・クザーヌスとされています。


ただし、凸レンズや凹レンズによる視力矯正を理論付けしたのはヨハネス・ケプラーの光学や天文学の論文であり、1604年のことです。

 

また、日本に眼鏡を伝えたのは、宣教師フランシスコ・ザビエルで、周防国の守護大名・大内義隆に謁見した際に献上したのが最初といわれています。


ただし、これは現存しておらず、現物で残っている日本最古の眼鏡は、室町幕府12代将軍足利義晴が所持していたと伝わるものがあります。


一説には、義隆の物より、義晴が所持していたものの方が古いとも言われます。


また徳川家康が使用したと伝わる眼鏡も久能山東照宮に現存しています。


日本でも、眼鏡はやがて国内で作られるようになり、江戸時代の半ばほどにもなると、江戸や大阪の大都市では、眼鏡を販売する店が出るようになりました。

 

 

アメリカ合衆国の科学者ベンジャミン・フランクリンは近視と老視に悩まされ、1784年に眼鏡をいちいち交換しなくて済むように多重焦点レンズを発明しました。


1825年、イギリスの天文学者ジョージ・ビドル・エアリーが世界初の乱視用レンズを製作しました。

 

眼鏡のフレームも進化してきました。初期の眼鏡は手で押さえるか、鼻を挟み込んで使う形でした(鼻メガネ)。


ジロラモ・サヴォナローラが眼鏡にリボンをつけて頭に巻いて縛り、帽子をかぶれば外れないという提案をしました。


現在のようにつるを耳にかける形のフレームは、1727年にイギリスの眼鏡屋エドワード・スカーレットが開発しました。


そのデザインはすぐに広まったわけではなく、18世紀から19世紀初期にかけて柄付眼鏡などもファッションとして使われ続けました。

 

20世紀に入ると、カール・ツァイスの Moritz von Rohr(および H. Boegehold と A. Sonnefeld)が Zeiss Punktal という球面レンズを開発し、その後これが眼鏡用レンズとして広く使われるようになりました。

 

 


コンタクトレンズとは、角膜に接触(コンタクト)させて使用するレンズの形態をした器具です。

 

性能、使用目的、効果等により分類され、視力補正用レンズ・治療用コンタクトレンズ・色付コンタクトレンズなどがあります。

 

 
1801年にトマス・ヤングが、1823年にイギリスの物理学者ジョン・ハーシェルがコンタクトレンズに関する実験を行っています。


コンタクトレンズの語は、ドイツの生理学者アドルフ・ガストン・オイゲン・フィックの名付けた"Kontaktbrille"に由来します。


製品としては、カール・ツァイスが1892年に試作し、1911年に製品化していますが、全て度無しのレンズでした。

 

当時は原料がガラスであり、角膜すなわち黒目の曲率に合わせるためには多くの形を用意する必要がありました。


そこで1931年にレンズを強膜と接触させ、角膜とは間に液体を入れることで直接レンズに触れさせないタイプの「角鞏膜コンタクトレンズ」が発明され、ヨーロッパを中心に主流となりました。


一方、米国ではアクリル樹脂である PMMA を使った角膜に触れさせる、正確にはわずかに隙間を設ける形式の「角膜コンタクトレンズ」が急速に普及し、後にはコンタクトレンズといえば角膜コンタクトレンズを意味するようになりました。

 

日本では、佐藤勉が角鞏膜コンタクトレンズを、水谷豊が角膜コンタクトレンズの研究を進め、しばらくの間脱落防止性能や装着時間などを競い合いました。


この頃には角鞏膜コンタクトレンズもアルギン酸と石膏を使ったモールディングで眼球の型を取った接触型のものができるようになりました。


一方、角膜コンタクトレンズは、曲率半径7.33 - 8.59で20段階に設定された角膜レンズ検査セットを患者の目に装着させて角膜の型を測定するという方法でした。