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11月10日はトイレの日

 

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今日は何の日?

11月10日はトイレの日

 

「11(いい)10(ト)イレ」ということで、日本トイレ協会が1986年に制定しました。

 

同協会はこの日に「トイレシンポジウム」を開催し、公衆トイレを対象とした「グッドトイレ選奨」や「トイレレポートコンクール」の表彰などを行っています。

 

 


日本のトイレ(便所)は大きく分けて3つに分類されます。


そのうち最も古くからあるものはしゃがんで用を足すもので、和式と呼ばれます。


第二次世界大戦後には西ヨーロッパから座って用を足す便器(洋式と呼ばれています)や男性用小便器が輸入され、一般的になりました。


また、これらの便器には、それぞれ水が流れるタイプと流れないタイプがあり、大便器に関しては水が流れるものは水洗式便所、流れないものは落下式便所(ボットン便所)と呼ばれます。


簡易水洗式便所やトンネル式便所はこの中間型で、トンネル式便所は水洗式便所ではありますが落下式便所の範疇に、簡易水洗式便所は汲み取り式便所ではありますが水洗式便所に含めることもできます。

 

便所は日本において古くは「はばかり」や「雪隠(せっちん)」「厠(かわや)」「手水(ちょうず)」などと呼ばれていましたが、昭和以降は「お手洗い」「化粧室」と言い替えたり、外国語(あるいは和製英語)を使い「トイレ」「W.C」「ラバトリー」などと表記したりするようになりました。


また今日では公衆便所において男女を示すピクトグラムのみで表したりすることが多いです。


今日でも様々な形で呼ばれていますが、そのなかでも「トイレ」と呼ばれる場面が最も多く、広い場面で使用することができます。


トイレという単語は英語のトイレット (toilet) の略であり、「化粧室」といった意味合いを持っています。


現在日本語で使用される「化粧室」といった呼称もここからきているとされています。

 

 

日本人が便所を使い始めた正確な時期は不明ですが、古くから便所と見られる構造が遺跡によって見ることができます。


考古学で糞石調査がおこなわれ、各時代人の食性調査が判明してきています。


弥生時代の遺跡には下水道のような構造が見られることから、遅くともこの時代には排泄専門の施設として「便所」が成立したとされます。


『古事記』『日本書紀』の記述には、古墳時代の皇族が厠に入ったところを狙われる例がいくつかあり、武器を持たずに入り、出たところで捕えられたり、墨江仲皇子の例では、隼人である曽婆訶理に矛で暗殺されたことからも、視覚的に死角となっていたことがわかります。


平安時代、貴族は樋箱というおまるを使用していました。


また、餓鬼草紙などの絵巻物には野外で糞便する光景が描かれているように庶民は便所を使用しませんでした。


後に穴を掘って作る汲み取り式便所が登場し、設置が簡単であることから長い間主流となりました。


しかし排泄物を目視して健康状態を確認することが難しいことから、皇族や高い身分の武士が用いる便所は引き出し式になっており、あとで健康を管理する者が確認できるようになっていました。


鎌倉時代-戦国時代、京都の様な都市部や、京都に倣った朝倉氏一乗谷遺跡の様な都市部では厠が一般化し、各家庭に厠が付いていた事が知られています。


この頃の厠は、武家では襲撃に備えて人間の正面に扉が、それ以外では背中側に扉が作られていました。


江戸時代においては、農村部で大小便(し尿)を農作物を栽培する際の肥料としても使うようになり、高価で取引されるようになりました。


そこで江戸、京都、大坂など人口集積地の共同住宅である長屋などでは、共同便所が作られ収集し商売するものがあらわれました。


1691年に江戸を訪れたドイツ人医師のケンペルは、当時の日本の便所について、厠の床が清潔であり畳敷きもあること、素足を嫌う人用に草履の用意があること、汚物を受ける床下の桶の中には悪臭を防ぐために籾殻が積まれていること、貴人用には手の触れる所にそのつど白紙が貼られること、厠のそばに手洗いの鉢があり常に清潔を保つ工夫がされていることなどを詳細に記録しています。


加賀百万石(金沢)では家を建てる際やトイレの工事を行う際に、素焼きした夫婦一対の人形を「厠の神さん」として地中に埋める習わしが今も残っています。


農村部では、居住空間である母屋とは別に、独立して便所が建てられる(母屋には便所はないので、一度外へ出ないと便所に行けない)形態が戦後まで行われていました。


この頃の便器は大型の瓶であり、その上に大きな木枠、木の板を乗せ用を足す事が多かったようです。


また、小さな川の上に便所を設置することもあり、厠(かわや)の語源になったとも言われています。

 


また、琉球王国などにおいては中国と同じ方式の便所の穴の下でウワー(ブタ)を飼い、餌として直接供給する豚便所も存在しました。


大正時代から昭和にかけて、トイレ後の手洗いがそれまでの水盆式手水(ちょうず)から、軒下につるされた陶器、ブリキ、ホーロー製等の手水を使用する形式になりました。


「手水」は、トイレに行くを意味する暗喩「お手水に行く」や「ご不浄」、「御手洗」等の現代にも使用される言葉として残っています。


農業へのし尿の利用は、日本を占領した連合国軍のアメリカ軍兵士により持ち込まれたサラダ等野菜の生食の習慣のため、回虫など寄生虫感染防止という衛生上の理由が生じた事や、化学肥料など他の肥料の普及などから利用価値が低下し、高度経済成長期には取引は行われなくなりました。


そのため、汲み取ったし尿は周辺の海域に投棄されることが多かったようですが、国際条約によってし尿の海洋投棄が禁止されることになり、下水道の整備や浄化槽の設置に対する補助金制度の拡充などの施策が進められています。


下水道に関しては、最古の下水が弥生時代より建造されており、これらは便所の排水の役割を果たしていたものと考えられています。


安土桃山時代には豊臣秀吉によって太閤下水と呼ばれる設備が大阪城周辺の城下町に整備され、現在でも使用されています。


1884年に江戸(現在の東京都)の神田では煉瓦や陶器を使用した設備が造られましたが、1923年の関東大震災で壊滅的な被害を受けました。


その後全国で下水道の整備が進められるようになり、2000年の地点では日本の人口の約60%に普及しています。

まだ普及していない地域においては浄化槽の設置に補助金を出しているところもあります。


2010年代、日本国外からの旅行者に温水洗浄便座が人気となっています。


2020年夏の東京オリンピック期間中には東京への来訪者が急増し、混雑エリアでは仮設トイレで対応する可能性も指摘されます。


2015年5月25日、内閣府の有識者会議「暮らしの質」向上検討会は、高機能トイレの世界普及を目指す提言「ジャパン・トイレ・チャレンジ」をまとめました。